カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

映画「シアタープノンペン」

 地震のせいもありますが、
田舎でしかも映画文化の孤島であります我が故地では、到底上映も望むべくもなく(なにせ今年最大のヒットとなりました君の名は。すらも市内では9月まで全く上映されていませんでした)、隣県(映画祭もある福岡はともかく鹿児島、大分別府の映画館は上映するだけさすがですが)でも一瞬で上映が終わり気づかぬうちに見逃してしまってましたので、先月新潟まで観に行くかしばらく悩んでましたが本日、ほんとう運よく東京でやっと見ることができました。

いい映画でした。今年見た中でもベスト3ですね。て3本くらいしか見てませんが。

内容は、最初フンセン公園で銃をぶっ放すシーンはフンセンさん怒らないのかとか思ったりもしましたが、カンボジアポルポト派クマエクロホーム(クメールルージュ)により破壊された映画、文化と失われた映画の結末、その監督と、ヒロインだった母親の悲恋、その娘が偶然出会った、監督? 彼とともに失われた映画の結末を撮りなおそうとする娘、掘れた弱みで協力することになる銃をぶっぱなすガラの悪い、でも気のいいボーイフレンド、彼、彼女らと父親の確執と、父親の苦悩、そこに救いはあるのかということですが。

いや、カンボジア映画といえばお化けがでてきてぎゃあ、か、カラオケみたいに超展開で男女がくっついたり別れたりというのばっかかと思ってましたが高いクオリティに驚きました。

私的には、トンレバティのタ・プロームと、ワット ジエイ・ポー あの池の北側にクメールルージュによる虐殺の慰霊塔があるとは知りませんでしたが、そういった歴史遺跡が出てきただけでもう胸が熱くなりました。今年再訪したとこでしたしなおさらです。

プレアンコールからの歴史遺跡がポルポト時代には収容所となって、そこを舞台に悲劇が繰り返され、それをヒロインが追体験しながら失われた時代の、失われたおとぎ話のような内容の映画の結末を、自分なりに完成させようとするという、カンボジアのあちこちで見られた、同じ土地で起きる歴史の重層的な重なり、その悲劇性を思うと胸がつまりますね。

内容をとやかく言ってもアレなので、歴史探訪ブログであるからにはこの映画の作中の歴史的な流れについてまとめときますと

バイヨン期 12世紀末から
作中の結末が失われた映画の撮影場所である、
トンレバティ(バティ(地名)の大池とでもいいますか)のタ・プローム寺院(アンコール遺跡群のそれと区別するためそう呼ぶ)と、その敷地のすぐ北にある、ワットジエイポー(ポーおばあさんの寺)はプノンペン南方、ぎりぎりタケオ州にあるアンコール時代の寺院でバイヨン時代のものが残ってます。


まあ地球の歩き方に載ってる通り、プノンペンから近く、市民の行楽地としても、結婚写真の撮影やカラオケや映画のロケ地としても昔から有名です。

そして作中の映画の、遠い家路の舞台はポストアンコール時代の、カンボジア民話と同じようなどこかの時代の話しという設定であろうかと考えられます。

時は飛んで
1953~60年代はシハヌークが独立路線で東西冷戦に距離を置きつつ国内もそれなりに経営していて秘密警察は暗躍してましたが、シハヌークが映画を撮りまくったりしていた時代で、ようつべで探すと本作のエンディングでオマージュされクメールルージュの犠牲になった歌手、俳優さんたちの在りし日の姿が一部見れるでしょう。

私はSin Sisamoth氏とRos Sereysotheaさんくらいしかわかりませんでしたが(彼女はロンノル軍の宣伝に駆り出されてました。1972年の、パラシュート降下兵の恰好した愛らしい姿が今でも見れますが)この二人は歌手としてもカンボジアの伝説的存在でいまだに聴かれ続けてますね。私もカンボジア旅行中はみんなで聞いております。

1970.3
キッシンジャーニクソンが、カンボジア軍のロンノル将軍を傀儡として親米政権を樹立、独立路線といいつつホーチミンルートを黙認し中国寄りになっていったシハヌークは追い出され滞在してたまま北京に逃げ、そのつてであろうことか今まで蛇蝎のごとく嫌っていたクメールルージュとの共闘を画策します。

アメリカはドミノ理論にのっとりカンボジア国内の共産勢力、いわゆるカンボジアに逃げ込むベトコン(南ベトナム解放民族戦線:中国が支援)、そしてクメールルージュを駆逐すべく全土爆撃を始めます。

この時代カンボジア全土で、太平洋戦争中に使った量以上の爆弾をカンボジア中にアメリカがばらまいたと言われています。

そのために、プノンペン周辺の農地は耕作が不可能となり、農民たちはプノンペンになだれ込みます。1975年には都市人口の2倍以上、カンボジア流入農民は200万人を超えていたと言われます。

作中でも行き場を失った農民たちを、映画館の持ち主である監督と弟が映画館を避難所として開放してました。しかしクメールルージュのロケット弾が市内にも着弾したりしてました。轟音に怯える人々と、映画で気を紛らわそうとする弟と、このシーンが一番泣けました。キリングフィールドでも町なかでロケット弾が着弾して爆発するシーンがありました。。

1974年ごろ、作中での、結末が失われたという映画、遠い家路、プラウプテアチュガイ が作成され、

1975年4月17日 プノンペン陥落
その上映途中でクメールルージュの兵士が民衆を追い出して強制移動させ始めます。クメールルージュの侵入は正午ごろと言われてます。作中でも語られた通りプノンペン市民は戦争の終わりに歓呼をもってクメールルージュを迎えますがその声は連中の銃声と拡声器で消されます。

トンレバティのタプロームの近くに映画の監督、その弟、映画のヒロインである主人公の母が送り込まれ、そこにはクメールルージュの兵士として主人公の父親がいました。
作中は描かれてませんが石造の遺跡が収容所の監獄として使われた例はあちこちにあるようです。
あと作中で、クメールルージュによる、人を水牛の代わりにさせて田を耕させる非道なシーンも再現されていました。

しかし、映画監督と知られたら反革命的と決めつけられるのは当然の成り行きで・・・

で、時は巡って現代(といっても年齢とかからすると少し前になる気もするが)

不良のボーイフレンドの対立する不良に追いかけられて朽ち果てた映画館に逃げ込んだ主人公の女の子が映画館の壁に貼ってあるポスターを見て自分の母親であることに気づく。

と言った感じです。
ただ、カンボジアの現代史を知ると胸に迫るものがありますが、それだけでなく新しい時代ということも提示している作品でもありました。そこにはカンボジアの骨格となる部分の普遍的な救いと、主人公をはじめとした新しい世代による新しい救いもあるのかもしれません。

最後に余談ですが。
以前プノンペンでお世話になったり丁々発止のやりとりをしてたハヌマンアートの姉ちゃんがプロデューサーに名を連ねてて驚きましたが、えらくなってるんだなと感心しました。時間が経っていろいろ変化してるのはカンボジアの現実社会もその通りだなと思った次第でした。ミラボー橋に佇むような心境ですが。