カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

FC2をメインとします。

やはりはてな移行時にカテゴリなどめちゃくちゃになっており、ここはいまいち使えません。

のでFC2を遺憾ながらwメインとして今後活動しようと思います。

FC2からまたどこかへ流転するかもしれませんが。

 

一応

URLリンク置いておきます。が、仮店舗という名のままにしておきます。

カンボジアの歴史探訪仮店舗

 

今一はてなの使い方が把握できてませんが。

ヤフーブログでお世話になってたアンコールの誘惑さんのブログ見てたら、ケンブリッジ大学がKulen山中のMahendraparvatta,すなわちJayavarman2世のアンコール王朝揺籃の王都を特定した、という記事を見つけましてあわてて調べてみましたところ、Liderを駆使してKulen山の、ジャングルを除去したCG処理での正確な地形図を用いて、中心となるBanteay(砦)、そして縦横に、まるで平安京のごとく、とすら言える格子状の道まで描図されてますね。

現地に行かなくてもこういう解析であちこちで遺跡が見つけられてるとかで、驚きですねえ。

それにしてもこの画像リンク先の、台座の巨大さには驚きますね。

来年探しに行ってみようと思います。

それとシドニー大学の先生が今日シェムリアプのEFEOでアンコールの周辺の?遺跡に散乱している陶磁について考察する講演されてるみたいで

 

概要のレジュメくらいはEFEOに残ってたら来年見に行けるかなあと思いますがどうなんでしょうね。

最近ツイッターとかでネタが流れてくるのを拾ってる感じですがマヘンドラパルヴァッタの特定には驚きました。

ここ10年以上Kulen山中には入ってませんがまたバイタクの適当な連中に頼むのも面倒ですが、今やグーグルマップでほぼすべての山中遺跡の場所は特定されているので迷ったり別の遺跡連れて行かれてここだと胡麻化されることは少ないと思いたいです。

 というかはてな カテゴリーなど移転によってめちゃくちゃになっております。

今一つ使いにくい感じもします。

こうなるとFC2いろいろと問題ですが、あちらの方が記事の移行という点ではスムーズでしたのであっちに戻ることも検討せざるを得ません。

 

となると3月以降のわずかばかりの記事も手動で移行させないといけませんが。

 

どうしたものか。

引っ越してから放置してますが

ヤフーブログからデータ移行してから、ブログを全く弄っておりませんが、

なにもしてないからでまずいですね。

 

保守代わりに。

 

ツイッターを眺めていたら。

ちょうど140年前、1879年10月16日にエミール・グセル氏がアンコールワットの写真を初めて撮影した記念の日だったらしいです。

 うーんやっぱりアメブロでちゃらちゃらやっといたほうが楽だったかなあw

まあ扱い方に慣れることがあるかわかりませんが、旅行の時だけでも記事を上げて行きますわ。

さらばヤフーブログ

長らく放置していまして
存在すら自分で忘れかけそうでしたが
あれこれ迷った末に、最後に移行ツールが来た、
はてなに移動することにしました。

最後だから書きますが
まず便利そうなlivedoorにも惹かれましたが、運営母体が私的には嫌いなLINEなので勘弁してほしいです。
Amebaは悪くはないとは思いますが、浮きまくるでしょう。まあ沈殿して人目にもつかないでしょうけど。

Seesaa掲示板時代から存在は知ってますが、デザイン的に場違い感があり、これを選ぶならAmebaのほうがマシでしょう。

といういうことで消去法ではてなにしました。
はてながいいということでもないですが、FC2と、自分用に今までのデータも保存してますが
それらがいずれか残しとけばいいかなと思います。

それよりもFC2にwiki作成してますがやはりFC2ていろんな事件が起きる場所でどうもそれ以来手控えてて悩ましいですね。社会的な印象が悪すぎますね。

これももう少しマシで潰れそうにないところに移転してやり直そうか、あるいはもう、各々の遺跡についてもうダイレクトに本家wikipediaに投稿しようかwと思案してますが夢と風呂敷だけで実際どうするか。

8月31日に引っ越し作業することとしましたのでヤフーブログはこれにておさらばです。

何だかんだで薄く世話になりました。
ヤフーがブログという形態自体を捨てるということは、ブログという形そのものが
消えゆく文化となるのかもしれないですね。

現在の計画

またCISARKさんが落ちておりましたが今回ほどなく復旧はできたようです。


最近カンボジアで頻発する、電力不足による停電もその一因かもしれませんが、落ちるたびにデータが損耗していくのはなかなかに残念です。

当初8000近く登録されていて記載されていた遺跡も、昨日確認した時点で1852か所まで減っておりました。
今日復旧後どこか知らないけどさらに10か所消えて1842か所。。。


実に6000か所以上のデータが消えてしまったのです。
これには愕然としました。


やはりこれはまずいことではないか。

もうCISARK No.を参照して学術的議論をする意味はなくなってしまっているとすら言えるでしょう。
しかし、CISARKのデータが消えたということで憂慮しているのは日本のご先達と、わたくしたちのみのようで、グーグルで検索しても引っかかりません。検索が狭いだけかもしれませんが。

昨年別のヤフーブログで位置情報だけでもリンクしまくって書いていこうと企図しましたが、なんかしっくりきません。

そこで窮余の策および、かねてから夢想しては申してましたwiki形式でのデータのまとめを立ち上げようかと思いました。

とはいえどのWikiを使うかがまた人悩みで、Pukiwikiなど全く関係ないジャンルで記事を編集したことのあるところも考えましたが、
とりあえずDokuwikiのオフラインでの編集をしようとしまいた。
ある程度は非公開で作ってから、サーバを借りて公開、運用するべきかと思いました。

ところがあろうことかこれについているapacheとかいうのの、mapacheに、トロイの木馬が感染していると表示され全く使い物になりません。

ということで思案した結果、無料でできるwikiということならブログの避難先でもある、FC2でwikiにて立ち上げることとしました。
とはいえ、めちゃくちゃ癖があって扱いづらいところがありますが(編集中勝手にログアウトして記事が消えるのでワードで作成してまんま貼り付ける作戦に変更)、データはともかく、リストだけでも残しておけば、いずれ誰かに後を託すことも可能でしょう。問題はFC2がつぶれないかどうかwですが。

まあ人の営みゆえ永遠に残るなんてものはないでしょうけどある程度は残ればいいかということで。

その際、何より重要になってきたのはCISARKを基にしたデータで、それをまとめたものといえば、
このブログでも再三お世話になりっぱなしのご先達、KI様ご作成のKhmer monumentsというエクセルファイルがございます。ラオスとタイのもあったんですがわたくしもHDが何台も壊れ唯一カンボジア分だけ仕事(兼職場での暇つぶし)用のノートパソコン、これも壊れてとり出したSSDに残っておりました。

今は残念ながらHPもなくなりDLもできませんが、かつてかろうじて取っておいたファイルが残っておりますので、それをほとんど頼りっきりで、一部CISARKさんのデータのおかしなところに気付いた点は修正しつつ、ぶっちゃけ丸パクリみたいで気が引けますが、底本とさせていただいて、
位置がわかるもの、確認したもの優先ですが、
私家版のクメール遺跡wikiを作成することとしました。wikiにも基礎となる文献として明示し、謝意を述べさせていただきます。

本来わたくしの興味はこういうデータベース化ではなく、アホのような妄想を重ねて狭く深く錐のようにもぐりこんでいきたいところですが、このブログ自体明日をも知れぬ身ですので、しばらくはこっちの作業に没頭しようと思います。

とりあえず全州のリストの丸写し、一部修正作業をやってるところで、各論には全く手つかずですが、
今のところどこを検索しても表に出てこないので、このままひっそりと続けてまいります。
とりあえず中身はなくとも各州各地区ごとの遺跡の羅列。
一部CISARK未登録、ないしはCISARKの間違いもあるので修正。
ここまでは比較的簡単です。8000か所超とはいえ、中身がないので。

それから、わかる範囲で調べて位置情報リンク。
これはわたくしが把握している遺跡の場所は1000か所あるかどうか。。
グーグルマップで探しまわり、遺跡の痕跡があるなだまだしも田畑に破壊されて
Phnom Penh Postにそんな記事が載ってましたが,しかし文中のDohKramonてラタナキリじゃなくてモンドルキリの山では…)全く分からなかったり、
IKやLCなども調べて書かざるを得ず、一生かかっても終わらないでしょう。
この位置情報はある程度でやめておきます。

それから私家版ですので、わたくしが把握できている遺跡の各論をCISARKさん風に
まとめる。

碑文もわかる範囲で時代くらいは記したいもんですがどうなるか。


一部だけでも形になったら、まあこのヤフーブログサービスが終了するころには移転先ブログでお知らせすることができるかもしれません。
とりあえず風呂敷だけ広げてたたまないのはいつも通りですが、wiki
形式で、行き詰ったら全公開してだれでも執筆してもらえるようにできるので、FC2が存続する限りわたくしがもし消えても残るのではないかと思います。

2019年雨季の筈の旅 6

平成最後にして令和初めての旅の最後。
5月3日
Thai
Sakeo
1.[Sdok Kak Thom]
イメージ 1
1110 IK.880
画像は、カンボジアの制服着てた高校生の女の子二人組に、なんでここにいるのか驚いて聞いているガイド氏であるが、おっさんが話しかけてもセルフィに忙しくてあまり構ってもらえない、の図。
[Ou Ba Chaun]からバイクで国境越えて30分くらい、遊びに来たという。
学生は学生証のみあればバイクごと行き来できるらしい。カンボジア人ならみんな持ってる身分証明書で行けるらしい。

外国人でもパスポートとマルチビザがあれば、正直ポイペトから入るより、人少ないし便利だろうなとは思っていたが、タイに入った先がほぼ無人で公共交通機関はおろか、トゥクトゥクなど足の確保が困難なのが問題だが、カンボジアからバイタクで乗り込めばもしかしたら遺跡巡りできるのかもしれない。
遺跡公園の南西の、資料館ぽいところにも行きたかったが時間がなく断念した。

2.[Vat Aranyakaram]
イメージ 2

ここはタイの遺跡網羅されてるKK様ブログで見たことがあるのでマップにラベルつけておいたので、寄った。
遺跡自体の構造ははっきりしないが、また菩提樹の周りに石材やリンテル残欠など。小さな仏像がたくさん乗せられていてあまり写真撮れず。
他にもスドクカクトム寺院への途中にいくつか遺跡があり、中には道から見えるもの(マウンドだけだが)もあったが時間がなく無念の通過。

トゥクトゥクのおじさんもいかついおっさんで不安だったが、最初に頼んだ通り今度はアランヤプラテートの南の遺跡へ直行してくれたのはありがたいことだ。

Aranya Phrathet
3.[Prasat Khao Noi]
イメージ 3


そもそも、今回タイに入ることは最初は想定して無かった。
タイに往来してみるのは、シェムリアプに向かう途中でぎりぎり思いついたのだった。
タイの遺跡も予習してなかったので(Mollerup氏の新著もまだ入手してない)遺跡の詳細も山の上のレンガ塔くらいの知識でやってきたが、まさかここでもサンボ―プレイクック様式のリンテルと10世紀のレンガ塔の組み合わせとは思っても見てなかった。
だが時間が押してきたのと、雷雨が来て頭の上で雷鳴がなり、光ってから音が来るまで1秒弱なので慌てて逃げだした。今回最大の危機だったかもしれない。山中の祠、祀られていた御坊様に感謝である。

アクシデントがなければもっとあちこち見れたかもしれないが、下見としてはそれなりの収穫はあったかもしれない。来年はまた久々にバンコクから車でうろついてみたい気もするが、国境で車返却できそうなところがないので難しいか。

5月4日
Siem Reap州
Banteay Srei
1.[]
2016年に建てられた祠だが、
イメージ 4

これらの台座や石材が、山頂から来たのか、山麓から来たのか、この山とKulen山の間のどこかから来たのかが謎である。人がほとんどおらず寺も暑さのせいか人が出てきておらず雰囲気的に聞きそびれた。

2.[Phnom Hap]
乾季ならほどよいハイキングコースか?
イメージ 5

Prasat Bakong
3.[Prasat To]再訪だと思うが、
今回は東バライの水門にはいかなかった。10年以上前なので場所は特定できないが、行きたい人はここからBanteay Samreに行く途中で村の人に聞けばすぐわかると思う。
イメージ 6

4.[Prasat Trapeang Chambak]0449 IK.548
CISARKさんの画像見ると当時はリンテルは未発見だったのか、画像がない。
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1年前記事を書いたGajendra Mokshaの、ヴィシュヌ神のお導きか。

再びBanteay Srei
5.Prasat Run Vat Chey? Prasat Ta Chey 0450 IK.550
イメージ 8

石板に星辰らしき穴が彫られているがどうなのか、こういうタイプはあまり見たことがないが。
後世のいたずらとかじゃなければ
博物館に収蔵してほしい。

6.[Lo Tani,Tani ceramic museum]月にくる客は5,6人らしい。まあ正直見て楽しい人はそう多くないだろうが、なんかテコ入れなりすればいいのに。6号線から66号線への入り口にも日本語で看板が出ている。が、ロリュオスの東のここを通る日本人観光客は少ないだろう。
Sutnikom
7.[Prasat Trapeang Chong,今はPrasat Banteay KchongたぶんCISARK消えた。IK.561
イメージ 9

IKにプランが載ってるがIK3,pp244 fig 71、崩れているものの全ての建造物の配置は分かりやすく残っている。

5月5日
Angkor Thom
[施療院]
イメージ 10

やはりアンコール城内の施療院はディテールの装飾に凝っている。
がこの画像ではわからない。

[Prasat Ta mao,MH384,West Top]4754 IK.471.54
西トップ、東は奈良(文研)で西は東京(文化財研究所)が修理したというややこしさ。

イメージ 11

東は13世紀なんだろうがこっちはどうなのか?
陶片や瓦片は多数。

[Prasat Ta Nei] 0411 IK.532
イメージ 12

多分昔見そびれていた、ブッダストーリーの舟で渡るお話。

[Srah Srang]0398 IK.535.03
イメージ 13

雨季が始まっているのにさっぱり雨が降らず、メボンが大分見えるので行ってみた。
どんな建造物が建っていたのか?

ここまでで今回はおしまいである。
今回のまとめとしては、CISARKさんが2月以降閲覧できなかったので今回は下調べもほとんどせず、2月の焼き直し以上の計画もなく、サンボ―プレイクック以外は適当に行ったんですけど、
何と言っても10世紀のラージェンドラヴァルマン2世王が、サンボ―プレイクック様式のというかその総本山含めて
レンガ寺院を、あちこちで再建、修復、再利用、増設、ついでに近くに自前の遺跡を建てることまでやってることを再確認するような感じでしたね。

やはりこの王様はレンガ王と言えるでしょうけど、何が彼をSPKに駆り立てたのか、何を企図してそうしたのかは非常に興味深い話です。
まあある程度その訳もわかっちゃいるようですが、また今後のお話として、どこかに移動後考えてみたいと思います。

この記事を書いて、当初の予定では、FC2ではなくどこかに引っ越そうと思ってましたがやはり安定のヤフー、移行ツールを
仕上げられませんでしたね。
FC2に同時投稿してもよかったんですが、画像が小さくなるのがどうも、ただでさえピンボケブレブレの写真ばかりなのにこれ以上小さくなってはわけがわからなくなるので、画像がまともなところに移行させようと考えてます。
ライブドアか、はてなかどっちかだと思いますが。アメバは場違い感が大きいので。

それとめんどくさいんですがもう一つ懸案事項に取り掛かろうと思います。
遺跡についてのお話はもうこのブログでは記しませんが、今後の方針のさらなる進捗状況は
あと数回書こうと思っております。

2019年雨季の筈の旅 5 番外 ポイペト~アランヤプラテート出入国

イメージ 1

5月3日
旅慣れた人には今更の常識であろうが、
あまり情報もないので、参考までにポイペトーアランヤプラテートの出入りの経過についてそれなりに書いておく。自分の備忘のためもある。なおグーグルマップも4,5年前のものも多く、投稿された写真も古いものは様相が一変しているので見てもわからない。そこは注意しておいた方がいい。

 

到着までは紆余曲折を経たが、出入国自体の手続き自体はそこまで難しくなかった。


が胡散臭い連中がやたら徘徊していて、役人のふりや、オフィシャルなふりをしているので、
一切無視したほうがいい。特にカンボジア側。タイ側はあまり気づかなかった。

 

ポイペトでカンボジア入国のビザを取るのは、してないのでわからない。

 

最初にカンボジアの空港でマルチビザ、リピーターなら3年の観光ビザを取った方が圧倒的にお得である。
2月時点では、プノンペンではモニターにやたら目立つように「日本人限定 3年観光マルチビザ」の告示が繰り返し表示される。シェムリアプにはモニターなど表示は全くないが、言ったら取れたので、
最初にビザフォームを提出するときに申し出るとよい。

 

シングルの観光ビザで30ドル 3年マルチで80ドルである。値段追記しておく。90ドルとしているサイトもあるがプノンペンのモニタ表示も、シェムリアプで実際にわたくしが支払ったビザ代も80ドルである。しかしまあ実際1年はともかく、3年マルチでビザ取ろうという人はあまりいないと旅行会社の方に言われたが。
確かに3年間カンボジアに通い続ける人はわたくしのまわりには多くても、一般的には少数かもしれない。

 

ともかく、
それを使っての出入り実験も兼ねている。
結果からいうと、1リエルも1バーツもかかることなく、出入りできた。

 

カンボジアは車が右側通行なので、進行方向に向かって右側に事務所があり、
タイは日本と同じ左側通行なので向かって左側に事務所がある。
と覚えて公式のところ以外は見向きもしなければよい。


カンボジア出国でかでかとDepartureと書いてあるので、胡散臭い輩にはわき目もふらずここを目指す。

 

ここの入り口で、持ってない人は出入国カードを係官からもらう。が、出国カード持ってるとパスポート見られ、帰りに備えてあらかじめもらおうと、果ては無理やり取ろうとしてもくれない。入国時に貰えと一点張りである。
なんでそんなにケチなのか、あとでわかった。

 

タイのそれは自由に取れて、それを根こそぎ取って旅行者から金を巻き上げようとするよからぬ輩がいるからだった。

 

昼前についたので朝シェムリアプを出発したバスのラッシュと重なり、通関もそこそこ並んでいて暑い。が、扇風機を事務所から持ち出して回し始めたので、若干風が当たる。今のところ4列で80人くらいである。
ただオフシーズンでこれなので、2月とかハイシーズンには1000人くらい並ぶこともあるらしい。
その時期は数時間ゆとり見といたほうがいい。

 

そこで特段問題なく、意外とフレンドリーな役人からパスポートを返してもらってタイ方面へと歩く。


出国してもボーダーまではカンボジア領で、カジノやら店やら市場が混とんとある。
道を渡って南側の歩道を歩く。
橋を渡り、橋の真ん中までカンボジア国旗、それからはタイ国旗にかわる。


タイの出入国カード記入所白い屋根の吹きさらしだったのここだと思う。ここの先は右がカンボジア、タイ人のボーダーパス専用税関 左のエスカレーターの上がパスポートコントロールであるが。

 

記入コーナーにあるはずの出入国カードは胡散臭い連中が取ってしまって束で持っていて、旅行者から金をせびろうと徘徊しているので、そんな連中に間違えてパスポート渡したらアウトである。ここまでは胡散臭い連中がウロウロしている。

 

カウンターに座っている係官から直接貰う。ここも初見では戸惑うだろう。

 

カードをもらったらコーナーで書き込み(ペンなどないのであらかじめ用意しといたほうがいい)、

 

③国力の差かエスカレーターで二階に上がり、ここは入れるのか?というマジックミラーで中が見えない
ドアを開けると、中に行列ができている。ここがパスポートコントロールだった。

 

エアコンとファンがあってきんきんに冷えていて、国力の差を見せつけられる。

 

行列を無視して進むばあさんなどいてもイライラしてはしょうがない。
蛇行する列の間に荷物だけ置いて進み、次の列に上がった時回収する人が多い。
大したもの持ってなければいいかもしれない。

 

200人弱で通関は3人でやって1時間弱くらいだった。ちょうどピークに出くわしたらしく、その後は列は短くなっていった。故障とパンクがなければ今頃とっくにタイに入れたのにとは思うがしょうがない。

 

パスポートコントロールで、
入国カードにどこに泊まるのかと聞かれ今日帰る、ハーチャウモンと英語混じりでかろうじて
言うとなんとか抜けられた。
カンボジア人のガイド氏も、彼はボーダーパスでもよかったのだが、同じく、わたくしよりはあっさりと抜けたようだった。階段降りたらさっきズルしてたばあさんが仲間の婆さんと階段脇に座り込んで駄弁っていた。

 

ついでに帰りは、

 

タイ出国
は、道の左側の屋根付きの歩道を歩いていく。ここら辺には物売りが結構座っている。
歩道を抜けると、エスカレーター止まっていて、2階じゃなく左から建物に入る。また入りずらい雰囲気のドアを開けてパスポートコントロールだが、夕方ということもあり空いていた。18時前くらいである。15-16時くらいまでは、バンコクからの電車やバスの到着時間でそれなりに混んでいるかもしれない。この時間ならシェムリアプまで行く人も少ないようだ。

 

サラっと通関したら、また歩いて橋を渡り、国境を越え、カンボジアに入ると道の右側にまた渡る。

 

ここはよく見てないので参考にならないことを注意しておくが、
カンボジアのアライバルビザの事務所
があるが、はっきり言って紛らわしい輩の事務所擬きもあるので見極めが必要である。

 

一瞥しただけでもPassport Officeなどと看板掲げた胡散臭い小屋など見られる。これらはカツアゲ、仲介料と称してパスポートを人質に金をせびる輩なので要注意である。

 

わたくしは関係ないので素通りして、巨大なカジノモールとでもいうのか、それの連絡通路をくぐりぬけるが、チラっとみると開けられたドアからスロットがずらりと並んでいたりするのが見える。日本のパチスロ屋をちょっと豪華にした感じだが、客は時期か時間がずれているせいか少ない。が、あやしい雰囲気なので足早に抜ける。

 

タイ側よりせまい、屋根付き歩道を通り、途中トイレがあってそこそこきれいで助かったが、
immigrationのパスポートコントロールへ。そこで出入国カードを貰って狭い記入カウンターで書いて通関だが、18時ということでか、ガラガラである。
ガラガラであるてことは金せびられたり、絡まれる心配があったが、特段そういうこともなく、せっかくマルチビザのところにカードはさんで広げたまま渡したのに、わたくしの過去のビザをいちいち用もないのに見て時間がかかるが、それもほんの数分で無事何事もなくカンボジアに戻れた。
つまりカンボジア、タイの往復で通関するのに特段費用など全く不要だった。

 

タイのほうがまだ近代的で、治安もよく安心できるはずなのだろうが、混とんとした国境の間を抜けるとカンボジアのほうがやはりほっとするのは不思議である。別段会った人たちも悪い人たちは全くおらず、タイでもいろいろよくしてもらったのだが。