カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Preah Neak Buos 6 な、なげぇよw

えー。今日はこの寺院の最大の山場で妄想が炸裂いたします。

昨日は寺院の東側を見たので本日は西側に目を向けてみましょう。

ええ、まだ主祠堂の登場は先になりました。
繰り返しでうざいですが、それだけここの寺院は(ry。

今日も後半にかけてだんだんうるさくなっていきます。

お急ぎの方はすばやくご退避ください。

写真です。
イメージ 1

昨日の砂岩塔の北あたりから、図でいうところのレンガ塔、向かって左からM、L,ちょこっとK塔が
見られます。
手前のM塔はアンコール期でリンテルもおなじみ10世紀 Rajendravarman王が関与していると思われます。私は彼にレンガ塔王という称号を奉りたいです。
イメージ 2


この塔もいいけど、本日の主役はその奥の
この寺院内で2番目に大きく、
最古の寺院 L塔です。
イメージ 3


写っているみなさんは私に呆れてグッタリしております。
がそのお陰でこの祠堂のスケールが分かるかもしれません。

ちなみに彼らはまだまだ帰れませんでした。
・・・
この祠堂は長方形をしているのが分かるかと思います。
そして珍しくも西を向いています。
はい正面です。
イメージ 4


ここの、唯一残るレンガの装飾はちょっと珍しいと思われます。
追記!(よく見ろや自分。これは明らかに砂岩ですね、間抜けすぎorz)*

イメージ 5

プレアンコール、しかも前期の雰囲気満点ですね。

追記 よく見るとメダリオンのところ(楕円の)がプレイクーメン(Prei Khmeng)様式のリンテル
と共通ですね。

ここからモードが変わります。

この正面の石扉の両側にはおのおの碑文が残されており、まとめてK.341とされる。
北側が西暦700年、南側は674年である。
つまりこの寺院は少なくとも、この時代から存在していたことになる。

では今日はCoedes先生の本に載っているのでほとんど丸写しで参りたいと思います。

・・・碑文読むのは休みの日だけにしておこうと固く誓った_ノ乙(、ン、)_

全部載せると本当にうざいのでさわりだけ写真を。。。
イメージ 6

イメージ 7

・・・レタッチソフトで字を書いただけだが落ちまくったので色が変わりまくってしまった。
デザインとかではない、苦肉の策である。もうやり直したくないめんどくさい。

みっともないがそれでも、お見せしたいのは2枚目の、赤いところです。

クメール語からダイレクトに訳せるはずもないので
Coedes先生のフランス語を、でたらめに訳してみた。かなり妄想が入っている。

K.341(北) 試訳
シャカ暦622年(700年)、王はCri Civapada神のための土地を囲い込むように命じた。すなわち 東はVan Harenの、南はLantau・・・、西はThmo vrkの、北はTaran Tannotの土地である(多分領地の境界の地名)。

かの地にはすでに(Cri Civapada)神がましまし、民とともに信仰をはじめた
Pon Myanと Pon Bhuvanadhityaは、
<<V.K.A Cri Vijayesvara>>と同じときにここに来て(あるいはこの神がもたらされたが)
厳粛に区別される(厳粛さによって名を成す?)V.K.A Cri Civapadaへの奉仕を保証した。

他の世界にいる人々が神に<<入信する>>ために神通力をを与え(たまえ)、そして名声・・・恐れのない・・・・生きるのに必要な全て、それらはこの財団に依拠する。

提供されるすべての種類の資は、V.K.A Civapadaにささげられた。知られたものは:奴隷、肉牛、水牛、牛車、舟、栽培地、土地、土台?、錐??、川、canhvar、rlam(用水路かと注あり?)、田、小さな丘、放牧、池、湖、であり、
すべて、それは神への崇拝を毎年恒例として祝祭を執り行うものである。なんのこっちゃ。
あとは呪詛の言葉で
これらのものを盗み取るものは地獄の業火で太陽と月とが最後の日を迎えるその日まで焼かれ、苦しみ続けることになりますよ?。。。
糸冬

・・・
この碑文から分かるように
なんと!
この寺院の名は
創建当時の故事来歴を1300年以上にわたって残し続けてきた、と考えられるのだ。

この寺院の名は「聖なる隠者の寺院」
と記したが、実は
隠者というよりは入信して隠遁する、という意味があるという。

Aymonierも書いているが、それをあらわす言葉が
碑文2枚目の写真の赤字Pvasであり、
これがなまって今Buosになったと。

先立つこと26年前に、すでに神として祀られていたCri Civapada神の信仰に入信した、
二人の扶南時代には王の尊称とも考えられるPon~、をもつ貴人が
この地に到来して、この地の信仰を集めた神Cri Civapadaのカルトに入信して、
寺領とその所有財産を定めたことを記したことに、合致している。

すばらしすぎる!まーべらすである。

そしてこの地のより新しい碑文にもこの神様は
繰り返し出てくるし、昨日の碑文にもいたようである。つまりずっと信仰を集めていたために
歴代の王がやってきたのであろう。民間宗教としてとはいえないかもしれないが。

これだけでも驚きであるが

碑文の写真2枚目の赤い文字もうひとつのほう。
V.K.A Crivijayesvara(Vrah Kamratan anはクメールの神や王クラスの尊称ですね)
この名前。

シュリーヴィジャイェシュヴァラ つまりシュリーヴィジャヤの支配者 である王。

もう一回見直してみよう。
王の命令によってここに土地を区画されたこの地にやってきたのは、

扶南以来の古い尊称をもつ二人の貴人、Pon~ Myan~とPon~ Bhuvanaditya。

彼らはそのとき<<シュリーヴィジャヤを支配する王>>と一緒に来た、とも読める。

Pon~という尊称はなぞのプレアンコールの歴史の中で、徐々にV.K.Aに取って代わられていくのだが
クメールの尊称V.K.Aをもってるものの、何だか意味ありげな名を持つ王の命によってかの地に隠棲させられた、
とも考えられはしないだろうか。


このとき西暦700年。

カンボジアをほぼ統一していたJayavarman1世王はすでになく、後のアンコールの地では、多分その娘、主だったクメール史上唯一の女王Jayadeviがどんどんと衰える勢力をなすすべなく嘆いていた(すいませんこの内容の碑文K.256は714年ですがw)かも、しれない。

ここでインドネシアからマレー半島にかけて隆盛をほこりつつあるシュリーヴィジャヤとの関係について、再考する余地が出てくるのかもしれない。
ほんとにクメールの地に侵攻したのか、そして旧支配者をこのように隠棲させて代わりに土着信仰への寛容を見せたのか(大乗仏教的精神で)。。。etc

追記 よそにお邪魔してチャンパのお話聞いてたら、そういや、このころチャンパの首都ってヴィジャヤと言ってたような気が。うろ覚えですが。。
チャンパがジャワに襲われるのは確か8世紀末。。。
ジャワかチャンパか、の問題はまだ決着に足る証拠不足ですね。。。


いろいろ妄想はつきませんが、あまりに長くなりすぎたので、このあたりで今日のお話は
おしまいにしたいと思います。もう少し資料検討して考察したいと思います。。。

これで峠は越えた、とおもう。がイベントはまだまだ続く、かも。。。

参考文献
1.G.Coedes”INSCRIPTIONS DU CAMBODGE Ⅵ,Ⅷ”EFEO,Paris,1954,1967
2.Vong Sothera,et al "Sera Char Ruk dae proteah Kampuchea somuoi mun Angkor(カンボジア国内のプレアンコール期の碑文 original in Khmer)"Buddhi Khmer Center,Centre de Connaissance,Phnompenh,2003
3. E.Aymonier"Le Cambodge Ⅱ"(デフォルトでこのブログはつねにこの本を参照しています)。


ちょっと間抜けなところがありさり気に手直ししました。
_-)))コソコソ。
2008.3.2 さらに重大な間違いを(ry

*追記:重要事項
つまりプレイクーメン様式のあの砂岩の装飾は、再利用された可能性があると。
この祠堂、壁までがラテライトで上がレンガという、主祠堂と同じ作り方。スタイルもプレアンコールのレンガ塔とは一線を画している印象。主祠堂と、この祠堂とのレンガの大きさや作り方の比較は必須であるが、ひょっとしたら、ここはRajendravarmanが再建したのかもしれない。
だとしたら、再建時に建てた彼の碑文の精読も必要である。

今のところ留保事項。。。