カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Preah Neak Buosはまだまだ続く

えー。


まだまだ、この寺院のご紹介は続きます。例によって駄文がつらい方は写真だけでもご覧ください。

今日はとりわけつらいです。読むのが。

どうしてこんなにこの寺院こだわるのかと申しますと

まず、
規模が大きくてレンガ寺院が沢山かろうじて残っていること、と

何より歴史的に重要な位置づけの寺院であると考えられること、があります。
なにせ王道がわざわざ枝分かれしてこの寺院まで延びていた、のかもしれないくらいに。

さらに、
古くは西暦674年から、11世紀にいたるまで、その時々の主要な王と、この地方の支配者が
この寺院に祠堂と碑文を残していったからです。

この寺院に残る碑文と王たちの名は
7世紀 西暦674年    Pon Myan etc誰か分からない(K.341南北 読んでみたらびっくり!)
9世紀          Yasovarman  全国に建てた碑文をここにもおいた(K.346)
10世紀  Rajendravarman王の碑文(K.580)
10世紀 西暦974年    Jayavarman5世(K.343)
西暦985年    Rajendrasinha(K.344)戦勝記念??王様ではなさそう。
           残欠のみ(K.345)意味不明
11世紀 西暦1008年    Suryavarman1世(K.342南北)

これらの碑文一つ一つについて検証してみたいが私の手には負えませんので(でもいつかやろう)
さわりだけで行きたいと思います。

が、今日はちょっと碑文についてのミステリーに迫りたいと思います。

・・・世界ふしぎ発見見つつ書いてるのがバレバレだ。

イメージ 1


写真は昨日の図でいうとN塔である。この寺院内で、崩壊したのもあるかもしれないにせよ、
唯一の砂岩の祠堂である。
今日はこの寺院から東側をご紹介する。

祠堂は南向きでその前にはリンテルの残欠が半ば埋もれている。

イメージ 2


そして入り口石扉東側には碑文が残っていた。
この碑文が本日のトピックである。

イメージ 3


実は
これだけくっきり碑文が判読できるほどの保存状態にもかかわらず、
Barth,Aymonier(碑文を9文、回収したと述べているが)、Coedes先生たちフランスの先人たちの論文には掲載されていないのである。その後、回収されたかもしれないが私には見つけられなかった。

なんでスルーされたのか?

後世の落書きだから、という落ちかもしれないが(実際クーレン山中には古字で象さんに落書きするばか者が出現している)、

19世紀にEFEOが探索したとき、この祠堂が現在のようにはびこる
とげに覆われてアクセス不能だったにちがいない、と
私は推測している。まぢで。

これが第一のナゾであるが、
第二のナゾは碑文が解読されているとすれば他愛もないことかもしれない。

とりあえず、この碑文一部分だがなんとなく気合で解読できるところがある
ような気がするので、見てみると(って数字だけだしw)

最初の*はシャカ暦961年、つまり西暦1039年、かなりいけてると思う。
  **はkamraten jagat Civapada ずばり古来よりのこの寺院の主神と判明)
 ***は1060年シャカ暦、に見えて仕方ないのであるが悩ましい。

960だったらまだ、よかったのだがどうみても1060にしかみえない。。

タイ語の読める方も1060にみえるであろう。となると最初の年号から101年後の西暦1138年?!
この時代1000をこういうアラビア数字っぽく書いていたのかという疑問もあるが。
まあ私の誤爆ということが一番真実に近いであろうが。。。

もし
SuryavarmanⅡ世の時代とすれば、かなりアンコールワット様式で統一されていたはずだろう。。

碑文の内容が分かれば手がかりがつかめるのだろうが、そこまでのスキルのないのが無念である。
もしどなたかこの碑文についてご存知の方があれば、ご一報いただけたら幸いである。
字体についても勉強してみたらわかることがあるかもしれない。今はどちらか判別できない。

というわけで、しりすぼみに退避しつつ、時代の正確な同定は保留として、
祠堂のリンテルで推測してみよう。南面は既出で東面はほとんど未完成。
北面
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西面
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磨り減っているし未完成でわけが分からないが、唐草文のようすから到底アンコールワット様式とは
いえないだろう。むしろ素朴で古そうである。それなりにがんばろうとして力尽きた感はいなめないが。

あ、今の自分のようだorz。

・・・

北面の杖をついたお姿(何?)と西面のおなじみの
ご夫婦像からこの祠堂はシヴァ神を祀ったのだろうなと思われる。
サンポットの文様も形も判じがたいのは、写真が悪い(だけ)というわけではない。
結局何にもわからなかった。。。

あとは暫定11世紀の建造物としておいて、後日まで保留します。

あとはそそくさといきます。
この塔の東側に建つレンガ塔OとP
イメージ 6

写真でお分かりのとおり笹のとげで近づけない。
もう少し見てみたかった。

さらに東奥の回廊。ここも石柱を持つ。昨日の図では東1面のみの長方形のつくりで
Banteay Sreiなど思い出すが。
イメージ 7

でも実際は周囲を回廊が囲む構造になっている。

続きはまた明日にします。
いやー読んでいる人がいるとは思いませんが、ここまで読んでくださった方、
(TдT) アリガトウ。

多分しばらくはこのテンションで参りますので、テキトーに御放置くださいませ。

それにしても、石澤先生の本なのに、フランスでしか買えないとはどういうことだ?
http://www.efeo.fr/publications/vdp.shtml
下のほう。

碑文の勉強したい方はこれでも読んで一緒に勉強しましょう。

しーん。

参考文献忘れてた
1.G.Coedes”INSCRIPTIONS DU CAMBODGE Ⅵ,Ⅷ”EFEO,Paris,1954,1967
2.Vong Sothera,et al "Sera Char Ruk dae proteah Kampuchea somuoi mun Angkor(カンボジア国内のプレアンコール期の碑文 original in Khmer)"Buddhi Khmer Center,Centre de Connaissance,Phnompenh,2003