カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Preah Neak Buosその8(全十回)今日は控えめ(でこれかよ)

あまりに長いこの寺院のご紹介ですが、
いいところで、区切ろうかと思います。

あと3回でおしまいにしたいと思います。

まだ3回やるつもりかよ、という突っ込みは自由です。

しかしですね。
それだけこの寺院h(ry。

昨日に懲りましたので今日は昨日よりは短めに参りたいと思います。

イメージ 1

ヲイという声がどこからか。

えーこれでも碑文の上部サンスクリットパートはカットしておりますよ?

大体クメールの碑文の構造は
1.サンスクリットで大体の要約と宗教的称賛
クメール語パートで具体的内容

になっておりましてこの碑文もそんな感じです。

それからすると昨日の碑文はいきなりクメール語だけで終始してました。
これも考察の余地がありそうです。が、こういう例も、ままあります。

さて
この碑文ですが、シャカ暦X96年、と始まり、つつましいAymonierは
Xが写真でお分かりのとおり剥落しているので、
悩んで5か7だろう、どっちかといえば7のようだ。と推測しました。

しかし内容を考察したCoedes先生はやはり5でおkと判断されました。

今日はあっさりと。

要約
シャカ暦596年(西暦674年)5~6月の月が満ちる上旬第五日目の月曜日にこの地に
王の命令によって金のリンガを建立し、寺院の領地を定め(東南西北;昨日の地名も見られますが少し違う)
米と豆を奉納し、祝福し称えています。文中出てくるLingapuraを固有名詞(リンガの町)と取るか、単にリンガを祀った場所(あるいは神の名?)と取るかの問題はあるかもしれません。

クメール語パートでは出てきませんが、ここの主神Civapadaはサンスクリット語部分で
「前にCivapadaと名づけられた山」という表現で、崇拝されるべき存在として記されてます。

はいヒンドゥ教にお詳しい皆さんはガッテンですね。
山、リンガ、シヴァ神、全て同じですね。

とはいうものの、フランス語の、超テキトー訳なのであやふやですが、
この碑文で注目されるのは

①やはり、ここの主神はこの碑文の前から祀られていたのではなかろうか。
②これを命じた王とはいったい誰か?Jayavarman1世あるいはなぞのJayavarman1世bis?か他の王か?
③寺院についてくるはずの僕奴(奴隷とは違う)の名は、まだ記されていないが実態は?

というところでそれはまだ分かりません。
今日は妄想は控えめにして、あとは次の寺院に眼を向けて、平日ですのでおしまいにします。

イメージ 2


その前に、これはこのL塔の内部です。
情けないことに今まで意識してませんでしたが、
この塔は主祠堂と同様に、下の部分はラテライト、屋根にかけてレンガ、という造りです。

(追記 だから主祠堂と同じ時期の建立の可能性があるかもしれない)。。

サンボールプレイクックのような、内部のフックはみられませんね。

今まで見てきた塔に別れを告げて
イメージ 3

休んでいた皆さんは写真から逃げるようによけてくれました。

決して強制はしておりません。誓って。あまり写りたがらないんですよ。
旅行者相手の商売してる人は。彼らなりの配慮があるように思います。

はい、では次の塔に行きましょう。
イメージ 4

奥から、今のL塔と、その北の祠堂、KとHです。

両方とも、碑文出てます。

K塔はRajendravarmanがもう死んでおくり名で登場(K.344 お姫様も登場。シャカ暦907年 西暦985年)
H塔はそのあとのJayavarman5世(K.343 シャカ暦896年新年 西暦974年)

どちらも大注目の王です。がだいたい建てたのはJayavarman5世でしょうね。

Rajendravarmanについてはプノンペンに収蔵されたK.580という碑文もあります。
これについては、明日述べたいと思います。

これら碑文の内容については後日じっくり考察したいと思います。
_ノ乙(、ン、)_

で明日こそはこの寺院の主祠堂(扱い小さ!)とその他の建物をご高覧いただけるかと思います。
そしてあさってはまとめと観光案内。。。

という予定で参りたいと思います。

長らくお読みいただいてありがとうございました。
何か日曜夕方の某女性歌手のFMラジオのお便りコーナーみたいな締めですいません。

参考文献は昨日と同じです。