カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Preah Phnomその3~碑文K.594及びK.454について

本日は休日でもありましたので
碑文について、を先にやりたいと思います。
碑文について、ということはまた、かなり私的な感じになりますので
写真だけでも眺めてくださいませ。


先に碑文K.594について述べましょう。
はっきり言ってこれはどこにあったのか、そして今どこにあるのか、分かりません。
ついでに、内容もさっぱり分かりませんw。
16行の断片だけです。Coedes先生も解読までは至っておりません。
丸写しするのは簡単なので引用してみましょう。

1 -------ma-n vrah s'a-sa[na]--------
2 -----s'rivikrmavalla[bha]------
3 -----s'rivikramavijaya--------
4 -----s'rinr.pendravi-rama-----
5 -----s'rijayayuddha--------
6 -----karom.ta mraten~s'ri----
7 -----toy is.ti sre prama-n----
8 ---[a]moghapura toy------
9 -----dau toy -drane-------
10 ------do ma-pra-------
11 ------n~ca ta gi-------
12 ----y tap ce---------
13 -----s'ri pa- -------
14 -----a ta-------------
15 -----p vidya----------
16 --------------------
引用終りなんのこっちゃ。
メモ
Coedes先生によると字体からみて10世紀の碑文とか。
s'asana=王の命令、という文言が見られる。
多分、1-7行目のは高官の名で、ほかの碑文との重複がないか、とか調べると面白いのであろうが・・・。
地名Amoghapuraもどこかよく分からないが、カンボジア西方か?ピミエンナカ(王宮)の碑文にも
出現。ICⅢだけでも、ほかにVat Ek,Banteay Preu(Svay Chek)。
(金山論文の資料が見つからないので発見したらまた追記予定。。。)
メモ終了

次言ってみましょう。

中央祀堂に残るK.454です。
イメージ 1

これが中央祀堂です。
とりあえず先に碑文から。。。
入り口の右の(いつもどおり祀堂から見て)石壁に2行のみの碑文があります。
イメージ 2


サンスクリットです。
例によって丸写しです。
前半部と
イメージ 3

後半部とに分けて撮影してます。
イメージ 4
(読む順序は1行目前半→後半→2行目前半です)

苦しい訳を。。

月と(1)空(うわーどっかでみた間違いしてた)と(0)腕?と(2)火と(3)で記される年に(=シャカ暦1023年)聖なる
Jayavarman(6世)王の命を受けて,雄牛を生贄にして?(hotr.s.abho=le trureau des hotar),王の祀堂付の司祭長は、Is'a(イシャーナすなわちシヴァ神でおkか)をPadmapuraの町に建立した。//

つまり西暦で言うと1101年のことですね。
どうやらこの時代この寺院と、これを含む町はPadmapuraといわれていたようです。

ここでAymonierのこの寺院に関する短い記録に立ち返ってみると、
「この寺院の数百メートル北には、東西1000m弱、南北400mの大池(la grand mare)がある。」

はい、帰ってから気がつきました見てませんすいません。

やはり予習はしっかりして学校や遺跡には行くべきですねλ....。

でも、これくらい大きな池があったということは、それに依った生活をしていた集落があったと考えても
よいでしょう。ただしこの碑文は最初の碑文から170年近く経ってますので、この寺院の建立そのものとは関係がないようです。

ちょっと中央祀堂を眺めてみましょう。


イメージ 5

南東から見てます。木が絡まりながらも堂々たる姿です。

残念ながらリンテルは
イメージ 6

これは自然に崩壊したようにみえます。

イメージ 7

上部の神様たちが辛うじて、原形をとどめています。

さて困りました。リンテルの美術様式をなんとするか。
昨日の碑文から考えると時はまさにコーケーの時代。
コーケーの支配が及んでいたとすればコーケー様式でよいのでしょうが。。。
判別しづらいです。

かといってここも明日からまた紹介しますが他の祀堂のリンテルも
崩落が激しいので、さっぱり分かりません。

レンガ塔だけで見て分かる方は分かるかもしれませんね。

むしろコー・ケーのPrasat Krohomを提示するべきでしたね。。。
イメージ 10

ちょっと手直ししてこちらの写真をアップ。同じ様式でしょうか。


ここで、ありがたくもCISARKより出土品のご紹介
クメール美術ファンの皆様お待たせs(ry

シェムリアプの文化省芸術局のリストかららしいので遺跡保存事務所、つまり
先日オープンした国立博物館で展示されているかもしれません。
無事だとすれば。。。
写真は1946年に撮影されたもののようです。

イメージ 9

イメージ 8

これ昨日の記事に載せるべきでした。リンク貼っておきましょう。


碑文で書かれた通り、まさしくガネシャとシヴァ神、及びウマーです。
一目瞭然 コー・ケー様式ですね。

他にも。。。
Aymonierの記述によれば(訳も手直しorz)

シヴァ神の頭が二体見つかり、円筒状の髪型にS字状の彫刻(オウムの印でしょう)があるものと、頭髷(ムクタ)を持つものとが出土して、なぜかKdei Ta Komに移された」とのことですが、
どちらかがこのシヴァ神のもので、もう一方が1101年の碑文に記載があるシヴァ神のものでしょう。
様式からいうと後者が写真のシヴァ神の頭かもしれません。
いずれにしてもこれらは今いずこ。。。

・・・
つまり、少なくともリンテルはこれらの彫像と同時代のものと考えて差し支えないと思われ、
この寺院はコー・ケーの政権の支配下にあって建立された、と考えられましょう。

つまり、当然のことなのですが、王の座が血で血を洗う闘争の果てに代替わりしても、
その王権を支える信仰、この時点まではシヴァ教が優勢のようですが、それを司る
神職者の一族は変わらず王の聖師としての地位を保ち続けていたのではないかと
推測されます。
(まあアンコールの年代記のように扱われてきたスドク・カク・トム碑文見れば当たり前かも)。

今回もCISARKのサイトには感謝です。
http://www.site-archeologique-khmer.org/core/showsite.php?id=571

明日からは写真主体で参ります、ハイ。

参考文献
1. G.Coedes"INSCRIPTIONS DU CAMBODGE vol.Ⅲ" EFEO,Paris.1951
2.1.Etienne Aymonier ”Le Cambodge.Ⅱ”
English translated by Walter E.J.Tips "Khmer heritage in the Old Siamese Provinces of Cambodia"White Lotus,Bangkok1999

もうちょっとまとめて構成しないと、いかんですね。