カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Vat Khnatの碑文K. 259南側

ちょっと間が空いてしまいましたが、
なにげなく

本日よりこのVat Khnat出土の碑文について読んでみたいと思います。
はい写真はありません。


碑文自体は現在どこにあるのか、分かりません。
セデス先生もAymonierの拓本からの解読のようです。

それにしても、この碑文、非常に大事なものかもしれません。

西バライ周辺の遺跡の記事
http://blogs.yahoo.co.jp/vyadhapuresvara/20398158.html
を書いたとき
ななめ読みしていたのに忘れてましたが
古の女王Jayadeviの名が、10世紀に書かれた碑文に親子ともども登場します。

石澤先生は岩波講座の東南アジア史辺りまでは
K.904のセデス先生の解説にしたがってJayadeviをJayavarman1世王の妻としてました。

その後訂正というか多分この碑文K.259も参照され、セデス先生の考察どおり、娘とされました。

まあ年齢的にも娘といっていいでしょう。
このJayadevi女王はプレアンコールからアンコール王朝にかけて
地方でなく中央の、唯一の女王であると考えられてます。

以前も書いたのですが、同時期の中国と日本も、女帝です。面白いものです。

西バライ水中から出てきたというK.904ともども彼女についてはいずれじっくり検証したいと思いますが
その前に碑文を読み解いていきたいと思います。と言っても訳があやしいのは相変わらずですが。

いや、あまりにわからないので、しばらく放置してました、ってのが真相です。
すいません。

訳文
サンスクリットパート
第一章1-7
Ⅰ 生けるものたちの母ラクシュミーを称えん。
Ⅱ.ラクシュミーかんばせは月の輝く光となり、この一文の言の葉の一枚一枚となる、蓮華を呼び覚ます。

Ⅲ.彼は乳海から手に入れたvaisnava(教義)のアンブロワーズ(神々の飲み物、アムリタとは書いてない)を飲んだ王で、・・・太陽は知識のための・・・。

Ⅳ.広く栄光あるこの王は、熱心にあらゆる方面から象を熱望して、彼の家族と母親とをVishnu神 Lokanathaの住まうところに、連れていった?・・・ラクシュミーを建立した。

Ⅴ.…財団というか基金を成功させるために、神様のご利益の成果(dharmmam.fruits of merit:なんかちゃんとした訳がありそう)をもたらしください。

Ⅵ.ふさわしいご利益の成果を保護することは、人々の財産から出資すべきわずかばかりの義務です。


クメール語パート
8-10行目
シャカ暦874年 Mratan Cri(は聖なるの称号ですね) N.rendrapatiと
Mratan Cri Mahendravallabhaは

Gapの長であるVap Keの土地を購入した・・・土地の値段は 10Jyanの銀で・・・石の柱・・・40(なんかの単位)の水田、4thlvan(単位、どれくらいかは不明)の塩である。
これがV.K.A.に贈与した土地である。

第二章11-14 破損
第三章15-20 破損

21-26
V.K.A.Jayadeviの御世 V.K.A.Cri Jayadeviの命令、V.K.A.Cri Lokanatha神に奉納する命令があった。 
与えられた??res .t .hin(人名らしい後述より) ・・・V.K.A.Cri Jayadevi----V.K.A.Cri Lokanatha---.それは押収されたもので、それは盗まれた、それは要求された、それは使用された、そのV.K.A.に属している土地(ここら辺は、よく分からない)

ここから26行まで破損?
27-30
人々が隣人と呼ばない人は誰も 供出しません。・・・奴隷、肉牛、水牛、車、... どこか他の所・・・、作るもの ...彼らの喜捨(尋ねるもの)によって作るもの・・・???
妨げます...すべてのこれらの財物は.. V.K.A.(Jayadevi女王)の命令を越えたもの:
バラモンは国を追放され・・・tul(単位?)の金,財団の共有地の人々は非難される。

31-38
なんとここからまた2節一行のサンスクリット語碑文となっている。

Ⅰ.勝利はCri Lokanatha、Criの配偶者に帰する。その人はその地の支配者たる・・・先頭を歩いていく、障害からの開放を目指して・・・。
Ⅱ.Cri Jayavarman(1世)という名の王は、強大なこと知れ渡り、まさに大洋のように、満たされた
・・・のような・・・。
Ⅲ.その娘(ここ大事:Jayadevi)は、Deviの神からの恵みの美徳に恵まれ、あたかも大洋の娘Padmalaya(すなわちLaksmi)のようである。
Ⅳ.王の聖師であったNr.paditya.(ヌリパーディティヤヴァルマンと関係あるのか?)
はGiric'aに献身的に尽くし 広く認められた有り余る美徳を持っていた。
Ⅴ.この王の商業の長官の名前・・・王妃の・・・
Ⅵ.偉大なるC'res.t.hin(シュレーシュタヴァルマンと関係あるのか?)は、生来の有り余る比類なき美徳を持っていて・・・
以下破損

なんだか分からないまま終わってしまった。

どうもこの寺院は7世紀中葉にはなんらかの寺院が建立されていて、そのための基金というか財団が
設立され、
それはどうもこのJayadevi女王がヴィシュヌ教徒らしいので、その関係らしく、

ここからがなぞなのだが、西暦952年に、そのビシュヌ神を称えつつ
この碑文が書かれた?

しかし、その土地の供出とかで、あんまりいいことが書いてなさそうな印象もあるのは
何ゆえか。
しかし、10世紀の筆者は
古のジャヤヴァルマン1世王とジャヤデーヴィ女王とを称えている。
大洋に例えているのも水がらみかも?

他に興味深い人物の名もでてくるが、こうなると、この碑文のあとはK.904も読んでみないといけない気がしてきた。

がその前に北面パートも読まないといけない。
いつになるやら。。。

長くなったので考察はまた明日に引っ張ります。

参考
G.Coedes"INSCRIPTIONS DU CAMBODGE Ⅶ"p50-57,EFEO,Paris,1964