Prasat Phnom Ruong
引き続き、先日のPrasat Phnom Ruongについて紹介します。
グーグルアースを入れてる方はこんな感じで見られると思います。
これだけみると、標高差などなさそうにみえますが、前にも書いたとおり小高い丘になっております。
これだけみると、標高差などなさそうにみえますが、前にも書いたとおり小高い丘になっております。
砂岩の構造物など見てみましょう。
これはオリジナルかどうか分かりませんが、やはりプレアンコールに特有、といってもよい
黒く硬そうな砂岩の梁か、敷石かが見られます。
これはオリジナルかどうか分かりませんが、やはりプレアンコールに特有、といってもよい
黒く硬そうな砂岩の梁か、敷石かが見られます。
これも同じく。
またヨニも大きくプレアンコール期の、シャープな石の研磨が施されてます。
なぜか裏返しになってますが。
台座も並んで置いてありました。
大きめです。
他の遺物など見てみますと
石柱と、何らかの彫像の未完成部分でしょうか?
少なくとも石柱はプレアンコール期の、特定はしえませんが、古い様式と思われます。
石柱と、何らかの彫像の未完成部分でしょうか?
少なくとも石柱はプレアンコール期の、特定はしえませんが、古い様式と思われます。
これは塔の基盤でしょうか、井戸のようにも見えましたが、石のシャープさにはちょっと
驚かされました。
写真はこのくらいです。
それにしても、以下は課題ですが
イシャーナプラ、すなわち、イシャーナヴァルマン1世王がサンボール・プレイ・クックに都を開いた611年、つまり7世紀ですが
その孫の代、ジャやヴァルマン1世そして、少なくとも彼の娘ジャヤデーヴィはこの地を中心に活動していたと考えられていますが、そのころの、王都は一体どこだったのでしょう?
その孫の代、ジャやヴァルマン1世そして、少なくとも彼の娘ジャヤデーヴィはこの地を中心に活動していたと考えられていますが、そのころの、王都は一体どこだったのでしょう?
ちなみに私のHN vyadhapuresvara 何のことやらと思われてる方も多いかと思いますが
ジャヤヴァルマン1世王の別名で、すなわちヴィヤーダプラ(黄金の都市)の支配者という意味で、このヴィヤーダプラがどこにあるのか?
がいまだなぞなのであります。
私的にはこの辺りと推測していますが、そういう説ももちろん、とっくに提示されています。
ジャヤヴァルマン1世王の別名で、すなわちヴィヤーダプラ(黄金の都市)の支配者という意味で、このヴィヤーダプラがどこにあるのか?
がいまだなぞなのであります。
私的にはこの辺りと推測していますが、そういう説ももちろん、とっくに提示されています。
ただ、このジャヤヴァルマン1世王も何人かいるかもしれない、という説もあり、時代的にもずれがあるので、どうなのか、という問題も残ってるようです。
さらにさらに、同時代の隣国、チャンパについてもかかわりが深いと思われますが全くのなぞです。
(林邑(=チャンパなのか?)問題)
(林邑(=チャンパなのか?)問題)
2月に提示したPrasat Preah Neak Buosなどはこれらの問題の手がかりとなりうると思っております。
あそこの碑文K.341は西暦674年と700年で、王の名は明記されてませんでしたが、
674年銘の碑文の王は、ジャヤヴァルマン1世王ではないかという説があります。
しかし、ギリギリで彼は薨去していたかもしれません。ここら辺はあいまいです。
あそこの碑文K.341は西暦674年と700年で、王の名は明記されてませんでしたが、
674年銘の碑文の王は、ジャヤヴァルマン1世王ではないかという説があります。
しかし、ギリギリで彼は薨去していたかもしれません。ここら辺はあいまいです。
しかし、残されたリンテルの残欠はプレイクーメン様式で、美術様式の統一性から明らかに彼か、その娘かの影響が及んでいたと考えられます。美術様式を単なる流行と捉えるのではなければ。
700年銘の、名もなき王は娘のジャヤデーヴィ女王と考えたいところですが
こちらもはっきりしません。
http://blogs.yahoo.co.jp/vyadhapuresvara/33249197.html
http://blogs.yahoo.co.jp/vyadhapuresvara/33323108.html
こちらもはっきりしません。
http://blogs.yahoo.co.jp/vyadhapuresvara/33249197.html
http://blogs.yahoo.co.jp/vyadhapuresvara/33323108.html
父親ジャヤヴァルマン1世王は、碑文から見ても強大な権勢を誇っていたようです。
彼がサンボールプレイクックにとどまっていた可能性は低く、どこかに自らの新都を
開いたことは、少なくとも間違いなさそうです。
彼がサンボールプレイクックにとどまっていた可能性は低く、どこかに自らの新都を
開いたことは、少なくとも間違いなさそうです。
くどくなってきましたので、ここら辺で妄想をやめておきますが
週末にはジャヤデーヴィ女王の碑文を読んでまた考えたいと思います。
彼女が現世を例えた苛烈なるカリーユガの時代、
まさに今なのかもしれません。。。
まさに今なのかもしれません。。。