Phum Snay 2補足
追加で多少。
村落の西はずれにある新しいお寺。
あろうとことか、聞いた名前は、失念した。
あろうとことか、聞いた名前は、失念した。
その敷地
死んだ建物で、だれもいない。住んだり管理したりもしない、ようだし、そもそも
観光施設としても無名だ。
何がしたかったのか?
いずこも同じかもしれない。
観光施設としても無名だ。
何がしたかったのか?
いずこも同じかもしれない。
空虚な感じ。
その南?隅にあるブロック立てのストゥパ。
キリングフィールドの鎮魂碑に見えるが、
キリングフィールドの鎮魂碑に見えるが、
盗掘して一儲けした連中が、贖罪のためか、盗掘の際出土した人骨を
納めるために建てたとか。
納めるために建てたとか。
ここでも気軽におじさんたちは骨を取り出しては、どうだ~古いだろう~
と見せてくれたが。。
ほんと、ちら見しただけでは、いつの時代のか分かりませんし。。
と見せてくれたが。。
ほんと、ちら見しただけでは、いつの時代のか分かりませんし。。
でもまあ、
頭蓋骨だけでも100体以上はあったようだが。
こんなにも大量の人骨が出るのは、
長年に亙ってここが集団墓地として使用されていたためか?
こんなにも大量の人骨が出るのは、
長年に亙ってここが集団墓地として使用されていたためか?
人骨の特徴を一体一体調べるとその特徴に、断片的な時代による異同が見られるかもしれない。
が、もしこれらがほとんど同時代のものだとすれば、それはそれで驚きだ。
が、もしこれらがほとんど同時代のものだとすれば、それはそれで驚きだ。
まあ、そこら辺に転がっている陶片見る限りは、長年の蓄積、
多分、先史時代から(どのくらいさかのぼれるか、だが)
アンコール期までの物ではなかろうかと思われるのだが。
多分、先史時代から(どのくらいさかのぼれるか、だが)
アンコール期までの物ではなかろうかと思われるのだが。
これらは、埋葬時に口に銅の副葬品(呪術的な意味合いがある?)か何かを入れたためだろうとのこと。
その銅製品についてはぼろぼろで何か分からなかったが。
その銅製品についてはぼろぼろで何か分からなかったが。
写真も撮ったが、自重しております。
科学的な調査とか、いろいろネタに付きない貴重な古代からの遺跡であることは
間違いないので、さらなる研究が進むことを願ってます。
間違いないので、さらなる研究が進むことを願ってます。
とりあえず、村の中央に戻って見るとしますか(てか最初にここに行ったんですがw)。
はい、古い物好きのみなさんお待たせしました。
それなりのガラスケースに、出土した土器が展示というか、保管されてます。
これだけでも、時代の変遷が見て取れます。
これだけでも、時代の変遷が見て取れます。
やはり黒陶はそれなりの古さあるようです。
中段の丸底の大壷なんかは、扶南時代といえるか?
中段の丸底の大壷なんかは、扶南時代といえるか?
長足壷なども相当古そうです。まあ妄想ですな。
日本の大学(うわ忘れてるが、早稲田?)が撮った航空写真が、色あせて背後に貼られてます。
奥の倉庫にはなんか、農機具とか肥料と一緒に大量の出土した土器が保管されてます。
おじいさんたちが調子に乗ってどんどん見せてくれますので、見たい方は現地でこの倉庫
(一応鍵かかってます。)の前でうろうろしてると、
だれかがおじいさんに連絡取ってあけてくれることでしょう。
おじいさんたちが調子に乗ってどんどん見せてくれますので、見たい方は現地でこの倉庫
(一応鍵かかってます。)の前でうろうろしてると、
だれかがおじいさんに連絡取ってあけてくれることでしょう。
てかここからすでに足元よく見れば土器片が転がってますが。。
壷ばかりに目が行ってますが、どうも陶製のボビンのようなものも多数ありました。
布を織っていたのでしょう。が、これがいつごろになるか。
が、実は前回の柳葉伝説の解決のヒントになるのかもしれません。
が、実は前回の柳葉伝説の解決のヒントになるのかもしれません。
ま、フルだけふって投げっぱなしにしておきますが。
とある民家にて。
まあ、この村では、こうやって歴史遺物も日常に溶け込んでおります。
CISARKさんのサイトでも似たような光景が映し出されております。
昔はもっとこんなだったんでしょう。。
大分持ち出されてしまったんでしょうけど。
昔はもっとこんなだったんでしょう。。
大分持ち出されてしまったんでしょうけど。
おじいさんも、クメール黒陶の大壷(割れてる)保管してるので見せてあげよう、
とか言ってましたが、なんかうやむやで終わりました。
とか言ってましたが、なんかうやむやで終わりました。
まあいいいでしょう。
またこの近辺については書きましょう。
いつになるかはナゾですが。
いつになるかはナゾですが。