カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Phum Snayその1 悩みは深し

追記 久々に、記事を迷いあぐねて書いて見ましたが、かなりの妄想でしたので、若干その色を薄めつつ、
思いつくままに書いて見ました。またちょくちょく手直しするかと思います。
・・・

Phum Snay
問題はここなのです。


ここについて色々検証したいけど、それは諸刃の刃。

そっとしておくべきかもしれない。

けど歴史的重要性からすれば、看過できない。
ああジレンマ。

まあ、後述も先述もしましたが、テレビに出たので行って見たいと思われる方も
まれにはおられるかもしれません。


この遺跡についてどうしようか、だけでもこの3ヶ月悩みましたよ。。(うそ)。
でもまあ、こんなところで書いても
あまり影響ないだろうから、当たり障りない範囲で書くことにしました。

なによりここは、大事な場所でありますし。

アクセスは、そう難しくは、ありません。

行く方は、荒らさないように、とだけ願うのみです。
イメージ 3

楕円形の、丘陵の周囲、てか全体が、先史時代からの遺構なのです。
大体3.5km南北くらいでしょうか。人工の円形集落の、規模が大きいものという印象もありますが、
周囲にはこんな感じの岩山とか丘が点在してます。

ここの中のどこら辺かにある、
世界ふしぎ発見」ででた、水の流れる聖域は、ユネスコかどこかに委託されたと言う管理人のおじいさんによると、ビニールシートをかぶせた後埋め戻したとのこと
イメージ 1

で、その様子を柵の外から伺うのみでした。

ここがいわゆる女王柳葉の墓所ではないかというのが、ふしぎ発見での安田喜憲先生の仮説でしたが、
私はそれは考えづらい、と思いました。

位置的にもその時代から、すでにここは海岸べりでもなかっただろうということもありますが。
まあ、
今よりトンレサップ湖が超巨大だった可能性があるなら、ありえるかもしれませんが。


それに、この真北側に人工的な丘があり、こちらのほうが見た目からして重要そうな雰囲気をかもし出しております。
イメージ 2


写真は、分かりにくいですが、その「ふしぎ発見」で出た墳墓の北にある丘の、遺骨を集めて安置した
ブリキ屋根の祀です。

つまり安田先生のいう女王の墳墓よりも、この丘のほうが高い位置にあり
少なくとも「女王」とされた人物よりも高位にある人物の墳墓と考えたほうが妥当ではないか、と思われましたが、となると、こちらはカウンディヌヤの墓でおkってことでしょうか?
さて?

という話を考えたけど、根拠は全くないので自重しました。

柳葉(仮)の墳墓と、この丘とでは造営時期が単にずれているだけかもしれませんし。



このような、土を丘状にした遺構はプレアンコール期以降のものかもしれませんが、なんとなく
ただの丘と言う感じではありました。環濠は見渡す限りはっきりしません。
それにしても、プレアンコール、アンコール期のようなレンガ、石造の寺院の痕跡は全くありませんで、ポルポト時代に撤去された、とか言うオチにしても、何か雰囲気も違う印象です。

とにかく人骨の破片が。意外なのは、この丘ではあまり陶片が見受けられなかったことで、
丘周辺は盗掘の穴だらけだったのに、丘自体はあまり触られてないからかもしれません。

ちなみにアンコール期の陶片も、周囲では散見されましたので、重層的な遺跡と考えていたほうがいいでしょう。

問題の人骨について一応聞いて見るに

「ここはキリングフィールドだったわけでは?」
「ないよ。人骨見てごらん。現代人と違って骨がしっかりしている。骨髄の通ってる穴(髄腔)が細い、これが証拠だ」
「なるほど」

頭蓋骨自体も、年齢、性別、あるいは民族的特徴があるのかもしれないけど、概して小さめの印象。

ああ、写真自重してますが、とても検証したい。
だいたいこの墳墓に眠っているのは、何人か?どんな民族の人たちだったのか?

なんて妄想しても所詮、到底手にあまりますが。。

歴史的な重なりはあるかもしれませんので、これまた推測でしかありませんが、当時からこれだけの墳墓があるということは、かなりの人口集積地、つまりちょっとしたムラというよりマチだった可能性は高いです。

安田理論をもし裏付けるとしたら、もうかなり持ち出されてしまったけど、まだ地中に残る文化財
歴史遺物の検証を科学的に行うことでしょうかね。

そして、発掘調査の時に現れた、という水のしかけ(酒船のようだという)の持つ意味を検証してみることも重要かもしれません。
でも酒船と関連付けすぎても、先入観にひきづられるかも知れません。

でもまあ、
もし柳葉の墳墓がここだとしたら、と想像するのは、なかなかに歴史ロマンに浸れるかもしれません。

あるいは、カンボジア国内にはまだまだこういった、先史時代の遺構が一杯眠っていて、ここの単なるそのひとつにすぎない、と考えるのもまた、ロマンであろうと思います。

ただ、まあ、実際ふしぎ発見でも出ていたように、ここら辺が、武装した女戦士の墓だった、
ということからして、強力で、戦の先陣を切る、ある意味かっこいい女性の有力者がいたのかもしれません。

しかし、逆に言えば、この時代、女系社会は一般的だったとも言えますので、ここだけが特別な遺跡なのかどうか、の証拠も、今のところありません。むしろ私は、今後も別の場所で、同じような遺跡が出てきて、じっくり研究されることを願ってもおります。


おまけ。

忙しい人のための柳葉伝説

インドの商人カウンディヌヤ(王子という話もある 中国名 混填)は、船で扶南にたどり着いたが、そこは女王柳葉の支配する国だった。海岸に近づくと柳葉たちは攻撃してきたので、カウンディヌヤはインドの最先端技術の精華、弓で乗ってた柳葉の兵ごと船を打ち抜いた(ここに原初的な性的な解釈もなりたつがこれは神話にまつわる心理学的問題に帰結できるかもしれない)。

これを見てびびった柳葉はカウンディヌヤに降伏し、彼と結婚して扶南の国を仲良く治めた。結婚したとき、上半身裸の「野蛮な」姿の柳葉にカウンディヌヤは貫頭衣を教えて、以降柳葉はそれを着用するようになった。これがセデス先生の言う文明化、インド化って感じであるが。

その後彼らは9人の子どもに国を分割して与えたといふ。


この柳葉伝説は、インドカンチープラムの伝説とも、あるいはチャンパの伝承とも類似性があるといい、すなわちインドでは似たような歴史的イベントがあったかもしれないけど、扶南、チャンパあるいは林邑にしろ、その伝承を取り入れただけであり、
歴史的信憑性は、伝説ですから言うまでもなく疑わしいわけです。しかし、類似した事柄が全く起こらなかった、と言う証拠もありません。


とりあえず、リハビリ代わりにラディカルにやっちゃってみました。
単なる妄想が炸裂しまくりでしかありませんがw。

ラディカルすぎたのでかなり、訂正しました。

忌憚なきご意見、ご要望をお待ちしてます。
まあ、掘り下げたらとめどない話題ですし、もうこれだけで色々と議論できそうです。
書きたいけど収拾つかなくなるので止めておきますが、少しずつは検証していくことになるでしょう。


他にも写真色々撮りましたが、ちょっと自重しております。
あまり骨とかでも、被写体の皆さんにも悪い気がしますし^^;。

参考文献はなく書きましたが、ここにまつわる書物は少々あります。

次回 いつになるか分かりませんが列挙したいと思います。