カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

ブログはじめます。

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みなさん初めまして。

このブログではカンボジアを中心としたインドシナ半島の歴史についていろいろな形から紹介していこうと思っております。

最初はHPをもう4年前から企図していたのですが、あまりにまとまりがないし膨大すぎるので、大雑把な私にはブログでランダムにいろいろ書いて言ったほうがよかろうと、考えました。

・・・というのはうそでw
ずっとさぼっていたのですが、知り合いのみなさんにブログにしてはどうかと勧められましてので腹くくって不定期にちょっとずつ書いて行こうかと決意したしだいであります。

まあ長い前置きはおいておき^^;
本日は昨日帰還したカンボジア旅行の分から紹介するには時間がないので
最初にふさわしいかもしれない古い時代の遺構から紹介したいと思います。
?ってカンボジアではなくヴェトナムになってますが
そこは華麗にスルーしていただきつつ、

2004年9月に探訪したオクェオ(Oc Eo)について述べたいと思います。
多分、古モンクメール語族の言葉でオクェオ(美しい水)、あるいはクメール語でオーカエウ(宝石の小川)と呼ばれるインドシナ半島南方、メコンデルタ下流の、本来はクマエ・クラオム(クメール/下方)と呼ばれ、ヴェトナム領になったものの元々はクメール人の土地にあります。日本ではオケオと発音されてますが、以上の名前の由来から、私はオカエウもしくはオクェオと読みたいと思います。

今で言うと、キエンジャン省都ラックジャー(ザックジャー)、アンジャン省ロンスエンの間に位置します。この辺りには紀元1世紀から7世紀にかけて東南アジアに広く覇をとなえ、海のシルクロードの東西を結ぶ要として栄えた扶南の遺構がいくつか残されてます。
扶南自体はクメール人主体の国家ではなかったと言われていますが、詳細は不明です。
ヴェトナムでは少数民族、マー族が扶南の民の末裔ではないかと言われてます。たしかに額の広や目元にプノンダ様式の彫像と共通する風貌を、彼らはもっていますが分かりません。

・・・でははじめます。

                  
2004年秋9月。雨期の末期にオクェオを探訪した。といっても、事前の情報は日本ではほとんど得られなかった。なんとかピースインツアーさん<http://www.pitt.co.jp/>でラックジャーからロンスエンまでの車の手配のみを確保しての、ガイドもいない運転手だけのあてどない旅である。本来はラ(あるいはザ)ックジャーにある扶南の遺構、Nen Chuaにも行ってみたかったが、時間上難しそうだった。サイゴンからフーコック島を経由してついたザックジャー空港から、迎えてくれた運転手Triさんとすぐ同市にあるキエンジャン省博物館に向かうが、閉館している。。。

ここで諦めていては始まらない。裏にまわるとランニング姿のおじいさんが住んでいた。Triさんと一緒に交渉して、係員がやってくることになり、それまで雨上がりの前庭の露天カフェでコーヒーを飲んで待つ。確かにベトナムのコーヒーはどこで飲んでもうまい。やんちゃな若者が3人でバイクに乗ってやってきたが店の女の子が目当てか、話しては嬌声を上げている。まあがんばれよ、と。

やがて博物館の受付というか、お使いでって感じの二十歳くらいの女の子が現れた。挨拶するとはにかみながら笑って鍵を開けてくれた。
いきなり、フーコック島出土のスワンカローク青磁の良品があって驚くが、それが目的ではない。オクェオコーナーをみる。遠慮がちに写真撮影をお願いしたら、再びはにかみながらすぐにOKがでた。普通は禁止のはずでダメ元で言ったのだが。一瞬この子に惚れそうになったのは余計である。

冒頭の写真1は興奮のあまりわけがわからないくらいブレているが、何かの弦楽器―それはローマやギリシャ由来のハープでは?と言われている―を奏でる女性と、向き合ってシンバルをうつ女性を描いた、Canh Den出土の壷の肩の部分である。ロングウェーブの女性の姿がなまめかしく、エキゾチックである。しっかり確認されたい方は文献1をご参照ください。

さて謝礼を固辞する博物館の女性に篤く礼を言って別れたが、普通はこうも行かないだろう。どうもせちがらいサイゴンとは違って豊穣なるメコンデルタの人々は感じがいい、と思ったのだが・・。

しょぼい感傷はおいて翌日はオクェオだ。意味もなく途中の山 Nui Sapまで登ったもんだから(遺構が眠ってるはずだったが…おまけに迷うは、タカリに遭いかけるは、その割に現代のお寺を見たのみ)ちょとあせる。30年前の疲れた遊園地といった趣のヌイサップをあとにする。尋ね尋ね、住民の皆さんからはオクェオの通称で呼ばれるメインの遺構Go Cay Thiにいく。
今やこんな感じで(写真2)屋根に覆われて保護されており、ガイドブックにあるような事前の特別な許可は不要だった。

日本の奈良の学術調査団?が入った時よりも整備されている。放置ともいうかもしれないが。一応傍らには小屋があってハンモック吊って昼寝しているおじさんがいたが目覚めることはなかった。管理人かと思ったが、オジサンはたまたま住んでるだけらしく、さらにここら辺の出土物を拾って持っていたらしく見せてもらえばよかったかと、後で後悔。
それはさておき。

ここは1942年L,Malleretの記したオクェオ港市で言ったら、だいたい中心地になろう。本来Go OcEoと記されている大きな遺構は丁度この写真の右奥方面にあるはずだが、盗掘や農地開発などで消滅したようだ(1995 Le;文献1)。向うに見える山こそ(霞んでいるけど)Nui BatheいやPhnom Bathe、バテ山である。

それにしても遺構はレンガで敷き詰められており、区切りがしてあり、間取りがなんとなく分かって、いにしえの人々の動線も推察され非常に興味深い。出土品の解析から、露出している遺構は大体5世紀前半から6世紀くらいと推定されている。
扶南の絶頂期か。
しばし当時の人々が喧く行き来している様子を想像して、時の流れに思いをいたす・・・
・・・
が!これで終わりと言うわけには行かない。行きがけにチェックしておいたが、Bathe山ろくの Chua Linh Son=霊山寺の南側Nam Linh Son遺構も見ておきたい。リンソン寺(自体は南ベトナムでも有数の大きさらしく、かなり有名らしい。しかし、扶南=オクェオ文明に血走る私は寺の参観をすっ飛ばして遺跡へ直行してしまった。。。これは大きなミスであったことが後に判明した。
後半へつづく。。。w

文献1 James C.M. Khoo et al "Arts and Arcaeology of Fou Nan" Orchid Press, BKK ,2003
文献2 Vann Molyvann"Les cites khmeres ancienes" TOYOTA foundation,1999
文献3 「海のシルクロードからみたベトナム中部・南部の考古学的研究」 シルクロード研究Vol.15,シルクロード学研究センター2003