カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Kampot州文化局 その2

さて気を取り直してKampot州文化局についてですが。オフィス内にはいろいろな遺物が持ち込まれています。のでいろいろ見せてもらいます。

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こんな感じでやはりプレアンコール期のヨニと
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リンガ。

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棚にいろいろ置いてましたがなかでもこれが一番の花形のようで
見せてもらいましたが

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この神像の頭部の素晴らしさをピンボケで伝えられないのが残念でなりません。

花冠や髷の装飾はかなり変わってます。
横顔を見るとPreah Ko様式なのかという気もしますが
ちょっと分かりません。珍しいものです。

そんなこんなしてるとなんだか大きな机にどんどん壺が並べられていきます。

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これらは全てタイはいわゆるシンブリーの四耳壷で
Tuk Meas辺りで出土したとのこと。あのあたりの洞窟から出たとのことでその近くのPhnom Totungかどうかは定かではありません。てか聞き洩らしてます。。

やはり、いくつかの壷の中には黒っぽい遺灰が入っていまして
壷の肩や底には人為的に穴が開けられたものもありました。

壺の生産年代からこれらの遺灰も16-17世紀と推測されます。
ちなみにこの壷は日本でも主に桃山時代に入ってきてます。主に西日本で出土しています。

さらに言えば堺にて出土したこの壷の中身は硝石だったようです。

タイの壷→硝石→Phnom La-ang、そして戦国時代の日本へとつながっている気がするのは気のせいでしょうか。

それはさておき、
壺の底や肩を破壊して穴を空ける風習があるのですがそれがどういう意味を持つのかは知りません。
どうやら日本でも故人の茶碗を割ることをしますが関係があるようにも思えますが。

ただその底の穴のせいで机の上にも遺灰がこぼれてましたが。。

このノイシンブリー周辺産の壺を使っていたのはタイ人なのかクメール人なのか、それとも16世紀末の華人なのか17世紀前半に明清革命によって祖国を逃れたと思しき中国人なのか。あるいはメコン川を船で埋め尽くす勢いで往来していた日本人か。

Tuk MeasはBanteay Measとも言って金の砦、ここは中国人が交易で市をなしたと言い伝えられています。
骨壷の中身がどなたかは存じ上げませんが少なくとも、交易によって大量のタイの輸出陶器が
カンボジアにも運ばれたことは間違いないようです。

以上、
ここら辺のことは北川香子氏の本読み返すまですっかり失念してました。

ここからまた話しが逸れますが、先日のPhnom Seda Aunについても
北川氏が訳したオウギュストパヴィの著書にも詳しく述べられています。

当時は原著がないので分かりませんがプノムスラーターアオンと言ってたようです。
詳しいことは以下のリンクよりご参照ください。

この19世紀においてはなんとここはチャム人が墓地としていたようです。
パヴィによるとしかもどうも火葬して骨壷に、ではなく棺をそのまま放置していたようです。

さらにパヴィの記すような入口に入ると貝殻がたくさんあるような様子も分かりませんでした。
一つにはコンクリートで多少塗り固められていたのもあるでしょう。
201502追記:画像みるとめっちゃ写りまくってました。気にも留めなかった自分があほです。

いずれにせよここは19世紀には今度はチャム人の墓地として使用されていたということです。
チャム人はひと固まりになって集落形成して暮らしていたでしょうからこのPhnom Seda Aun以外
の洞窟全てがチャム人の墓地化していたとは考えづらいですが。

ただ私がここで見つけた土器片からしてそれ以前クメール人も骨壷を納骨する場として使っていたのかもしれません。ただ土器片の時代からしてここは貝塚でもあったので古代の生活遺物かもしれませんが。

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文化局にあったSemaですがこれはそんなに古くないでしょう。ポストアンコールのものであるのは彫られた仏像らしきものの姿からお分かりでしょう。そしてPhnom Khyangの祠堂内部で見た龕の中のsemaも同じタイプのようで
これもまた奇しくも上記のタイのシンブリ陶の壺などと時代が重なっているようです。

どうも諸々の事象を整理すると洞窟から見えてくるのは今のところ寺院が建てられたころの話ではなくそのずっと後の中世から近世の様子です。

逆にいえば貝塚のように先史時代からの遺構があるものもあるので青銅器の時代から近世に至るまで洞窟寺院は特別な場所として宗教的に大きな意味をもっていたと言えるでしょう。

ちょっとごちゃごちゃしたので次回総括いたします。


北川香子氏の著作「アンコール・ワットが眠る間に―カンボジア 歴史の記憶を訪ねて」
連合出版、2009 これは考えてみれば本当にうまい題名です。「カンボジア史再考」もKampot州の洞窟寺院をしるよすがになりましたが。クメール語の人名とか地名がなれないとつらいでしょうがフォークロアとしての読み物としても面白う御座います。


同氏による訳 パヴィ, オーギュスト.『カンボジアおよびシャム王国踏査行』 P26
こんなものをただで読ませてもらっていいのか。
2014.4再リンク。この中でPhnom Neang Kong Rey(コンリイと表記)の伝説も紹介されています。

附属のBanteay Neang(バッタンボン州)の碑文の訳文ついているがこれは980年のもの。7世紀前後の、サンスクリットのプレアンコール期のというか扶南末期のものも見てみたいですね(他力本願)。