カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

クローラインュ~長い道

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”・・・砥石に使う大きな石でできた小さな遺跡が五つあった。その石は何トンもありそうで、積み重ねてあり、木陰にひっそりと隠れていた。村人たちはここをプラサート・プラム〔五つの遺跡〕と呼んでいた。遺跡の尖塔は折れて下におちてしまっていた。
遺跡の周辺を取り囲むようになっている石の板には、美しい浮き彫りが施されていた。私は遺跡に登り、一番高いところにある岩盤の上に座った。川から吹いて来る冷たい風を大きく吸い込み、祖先たちの造り上げた遺跡に驚嘆しながらよく観察した。遺跡の東北側には、大きな溜池が一つあって、オホテイアオイとハスが所狭しと生えている。
プラサート・プラムは、バンテアイチュマー遺跡からアンコール・ワットに行く道に建てられているのだという人もいた。きっと休憩所のようなものだったのだろう。”
(文献1;改行は私が勝手にしてます)

長いが今回はカンボジアの方が書かれた本の引用からはじめた。この部分だけを抜粋して見ると、今回紹介するクローラインュの遺跡のひとつプラサート・プラムの様子が分かる。がしかし、引用した本は遺跡のガイドブックでもなければ、歴史探訪の本でもない。

オム・ソンバット氏の「地獄の一三六六日」というポル・ポト時代の苛酷な生活をカンボジアの一市民として体験された壮絶としかいい様のない手記の一部である。ここでは余談かもしれないが、多くのカンボジアの方のポルポト時代の手記が、カンボジアを脱出されてからのものであるのに対し、本書は一貫して、現在でもカンボジアにとどまり、暮らされている方の手記であるところが重要である。また上記の様に非常に写実的なところもあれば、カンボジアの方の宗教観や心情の描写もいきいきとなされていて、訳も見事なため読みやすかった。内容は本当に体験した人ではないと、という苛酷なもので私ごときが触れえるものではないが。


もちろんオム氏はプラサート・プラムへ参拝や観光に赴かれたのでは、まったくない。灼熱の太陽のもと、のどの渇きに苛まれながら水路を掘らされるために延々と移動部隊として引きずり回されて行く途中に小休止したところがプラサート・プラムだったということだ。

2006年春バンテアイチュマーにてクローラインュから来たおばちゃんたちに出会った。写真1中央(バンテアイチュマーについてはまたいずれご紹介いたしますが有名なので不要かもw)。お参りに来たという。カンボジアの人たちは遺跡を今でも信仰の場として大事にされているところもあり(そうでないところもあるが)やはり、昔コーケーで出会った人々同様、余り人が来ないところほど、おまいりしたり寄進したりすれば功徳を積むことができるらしい。ではおばちゃんたちの地元には遺跡はないのだろうか?エイモニエの本見ただけでも30以上はありそうだが。。聞いて見たら、教えてくれたのがこのプラサート・プラムである。写真2

それで今回探訪となったのであるが、事前に旅行会社ピースインツアーアンコールさんに頼んで置いたら、なんとガイドさんが下見にまで行ってくれていたのでスムーズにいけた。途中道の真ん中で結婚式してたり(乾期で4,5月は多いらしくあちこちで結婚しまくり)、はあったが。おまけの写真6である。

エイモニエの本にも、名前はしっかり地図に載っているが、記載はあまり語ることはないなどとあっさり終わっている。遺跡の概要はオム氏の記述のとおりであるが、補足すれば東向きの五つの祠堂は、東側に写真のとおりラテライト(紅土)と美しく硬いレッドサンドストーンとでできた2基が崩れつつ建っており(写真3)、その奥西側にもう石の門の枠しか残していない、3基の並列する、多分レンガ建ての祠堂が建っていた事であろう。このあたりplanは正確でないかもしれないが。
たしかに東側に道があってもう分からないが、周囲は池で取り囲まれていたようである。

オム氏が述べておられるような美しい石の浮き彫りは、せいぜい写真4位しか見つけることが出来なかった。遺跡の南側に美しいレッドサンドストーンのヨニが置かれていたが、これはつまるところ、ポル・ポト時代以降の、多分UNTAC時代に盗掘されて、いろいろ持ち去られてしまったのであろう。いくつかの彫刻が残る石柱などは遺跡の入り口にあたる南東側にコンクリートのほこらがが建てられており、そこに収められている。写真5である。このほこらはなんということか、2002年に、日本在住のカンボジアの人たちの寄進によって建てられたと書いてあった。。。何とはない縁のようなものを感じるが、はるか故郷を離れて日本で暮らす方々のことに思いをいたす。何ゆえに彼らが日本に住むことになったのか。。。

歴史というものは過去から現在まで切れ目なくつながっているものだと、当たり前のことだが思う。その歴史の目からみれば私はここでは単なる闖入者でしかないのであろう。結露したカメラに苦労しつつ写真を撮ってから去る。
この遺跡の時代を示すものははっきりしないが、
レンガの塔と、ラテライトと砂岩との混成の塔、という構成、わずかに残る浮き彫りの様子、塔の構造からみて10世紀末から11世紀ごろではないかと思われる。レンガ塔と石の塔とではタイムラグもあるかもしれない。碑文は出ていないようである。この辺りご教示いただけたら幸いである。

この遺跡のすぐ北方にはオム氏の記述どおり、バンテアイチュマーへ伸びる王道が北西へ向かっており、遺跡の東側の川、ストンスラエンにはスピアンスラエンという橋が架かっている。しかし通りがかりのおじいさんの話では、オム氏の記述にもあったとおり、ポル・ポト時代に貯水池を作るための堤防の一環として(王道自体盛り土で周囲より高く土手のようになってるし)埋められたという。この辺りは「地球の歩き方」にものっていたとおりであった。行って見たかったが四駆では入れないとの事で今回は断念した。しかし昨年夏大阪で聞いた話だが王道にそって遺跡や橋がどんどんみつかってもいるとか。


遺跡へのアクセスはクローラインュは国道6号線沿い、シェムリアプから1時間ちょっとで到達できるであろう。そこで情報を集めつついくとよいであろう。プラサート・プラムは地元ではそこそこ知られているようであった。どちらかというと町の西はずれで、エイモニエはクローラインュの項でなくバッタンボンの北方の章で、この寺院にふれている。

実際オム氏の本を読んだのは帰国後であるが、旅してなじみのある地名が出てくることもあったが、そうでなくても本当に文章自体に引き込まれ戦慄しつつ、一気に読んでしまった。また遺跡とかかわりがあるところがでてくるのでそのときも引用しようと思うが、このように、単に遺跡を興味本位だけで能天気に探訪していても、まさに今自分が立っているその地で、悲惨な歴史の1ページが繰り広げられたのだということに改めて慄然とならずにおれない・・・

・・・灼熱の太陽のもと、想像を絶する渇きと餓えに耐えつつ、鋭く恐ろしい偵察員や兵士の監視下、最小限の小休止にささやかな安堵を得て、遺跡を見回すオム氏たち。しかし、ちょっとでも不審な行動と取られたら生命の保証はないのである。かたや同じ場所で能天気にカメラの不調を愚痴りつつ写真を撮りまくる私。まったく同じ場所に立っているのに何の因果か時間が違うだけでこんなに違うのか。

ここにいていいのだろうか私は。しかし、縁というものがあって私はここに来ることが出来たのだとも思う。そのことは何かの意味があることなのだろう。何かとは分からないものの。

参考文献
1.オム・ソンバット著 岡田知子訳 「地獄の一三六六日」財団法人大同生命国際文化基金、2007
カンボジアの現代史に興味がある方は必読であろう。それにしても壮絶な中にも、ところどころカンボジアの風情、いわば詩情というものも感じられるのは私だけであろうか。多分著者のお人柄と未見だが原文の美しさと訳出のご苦労によると思われる。)

追記:本書は出版元の大同生命文化基金によって電子書籍化され無償公開されています。
以下のURLから興味のある方は是非ご一読を。
http://www.daido-life-fd.or.jp/business/publication/ebook