カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Kralanhの遺跡少々

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風邪や身内の入院などでちょっと間が空いてしまったが、何事もなかったかのように続けていきたいと思います。

本日は前回(いつの話だ)に引き続き、クローラインュ、あるいはクレーランュの遺跡について、訪れた2,3について言及したい。
出典はほぼ、このブログのドグマのようなAymonierからである。まず今日は遺跡の紹介を訳出によってはじめたい。
”プラサート タ・アンはトゥック・チョウの少なくとも半マイルは北の、しかしストゥン・スレンg川の左岸に位置する小寺院の名である。東西よりアクセスする道によって分断されているが、環濠によって囲まれた2基の寺院は現在(西暦1884年)では荒れ果てているものの、変質したレッドサンドストーンの枠と扉を持つレンガで建てられた塔である。そのリンテルの一つは、むしろ地面に横たわっているが、よりよく彫刻されており、獅子面人身(原homme-lion:つまりナラシンハ)が悪魔ヒラヌヤカシプを引き裂いているのが見られる。
みすぼらしいわらぶきの小屋がこれらの塔の前に建っており、今は数人の僧侶のためのヴィハーラ(ここでは寺院)が建てられている・・・”


本文はこのあとこの塔の扉に残された碑文(K240,K241 saka889、901か909年=西暦967年、同979か988年、それとsaka1189=1267年)についての言及が続く。

が。
私が訪れたのは本当にプラサートTaAnだったのであろうか。
写真1はもはや影も形もないプラサート・タ・アン遺構と環濠を超えて新しい寺院ワット・タ・アンである。
寺の若い坊さんに聞いたらそうだと言うので間違いはないのだろうが。
改めて検証すると
まず遺跡の環濠はのこっているがエイモニエのいうような西側の道はなく東側だけ地続きであり
のこり三方は環濠で囲まれていた。確かに遺跡はレッドサンドストーンの石枠が無残に点々と放置されていたしレンガも見られたが、それよりもここはけっこう古く、といっても上座部仏教が入った跡であろうが、墓地となっているようで墓碑が散文的に遺跡の中にいくつか見られ、それらはそこそこ古いようであった。
もちろん言及されているようなリンテルはもちろん、碑文についても見る影もなかった。後者は遺跡の藪の中に横たわっていて私が見つけることが出来なかっただけかもしれない。いちおう碑文の内容は伝わっているがそれにしても貴重な10世紀の仏教信仰の碑文だったようであり、どこでもよいから保存されていることを祈る。

それにしてもプランから見て本当にここがエイモニエの言っていたプラサート・タ・アンに同定できるのかは私には分からないが、いずれにせよ彼の時代から120年以上たってその間にも当然歴史は動いているわけで、遺跡の一つや二つなどその歴史の波の中に飲まれてしまうことも、諸行無常当然だと言われたらそれまでである。

それでも歴史を語る何がしかは遺跡に残されており、その手がかりになるのが遺跡に散乱する陶片である。写真2は遺跡の周囲に散らばっていた陶片を適当に写真に収めたものであるが、ここは多分ブリーラム(タイのクメール陶器の窯)系と思われる黒釉の盤口瓶やそれより古い釉薬の薄いタイプ、あるいは時代は下って16世紀末の明の民窯の磁器片などが見られた。ここでは資料を提示するにとどまるがこれらの出土品から考察することは山のようにある。
いずれ私見を述べたいと思う。
さてめぼしい彫刻はひとつだけあった。ワット・タ・アンの外壁のそばにあった残欠、写真3である。割れていたので残り半分は盗掘されたのであろうと思われる。様式は碑文どおり10世紀半ばプレループなどラージェンドラヴァルマンの時代、彼の臣下の仏教徒が関わっているだろう。あるいはもしかしたらプラサート・バ・チュムと同じく。


さてもう一つ遺跡というかその跡を紹介しよう。
同じくクレーランのルン集落にあった、プラサートロベク・ルンである。今はプラサートの上にお寺が建っているのでワット・ルンである。
写真4のように環濠は残っているが他はまったく残欠だけである。しかし、周囲にリンテルや屋根に載せる小祠堂の未完成の彫刻、そして寺院内には石柱が飾ってあり全て硬質のレッドサンドストーンで彫りの状態もそこそこ良い。
この遺跡についてのエイモニエの記述はそっけないものであり、位置情報と5基のレンガ塔が建っているくらいのものであるが、もちろん写真4のとおり影も形もない。村の人の話ではまず遺跡の上に上座部仏教寺院が建てられたが、ポルポト時代に破壊され、その後近年寺院が再建されたという。ペンキの匂いも残るその寺院は新しいものであったが、リンテルは写真5のとおり見所が多い。特に上部であるが見完成で細部がはっきりしないものの何らかのエピソードを模したものであろう。その中央はドゥルガのようにも、クリシュナのようにも見えるが判然としない。いずれにせよ退治物であろうが。

リンテルの形状から、先述のプラサート・タ・アンと同じく10世紀半ば、プレループ様式に近いと言っていいであろう。

以前のバッタンボンで紹介した遺跡と同じく、ポルポト時代の破壊など(だけでないと思われるので)をへて遺跡の上に新しい仏教寺院が建てられていることが多いようだ。
とりあえず宗教を取り戻すと言う意味ではそれはカンボジアの人々の魂にとって必要なことなのだろうと思われる。


だから期待していた遺跡についたと思ったら、新しい寺院しかなかったからと言ってそれについてとやかくいう権利は我々にはない。さらにそう言う場所でもなんとなくよく見て見ると何かしらの痕跡を見出すことは出来るはずだ。少なくともいにしえより人々の信仰を集めてきた場所というものにはふれてみるべきなにかしらがあるのではないだろうか。どんな宗教にもよらず。

それでもなにもなかったら本の旅人になればよいのではなかろうか。となるとその本を残してくれた古のフランス人にはとりあえず頭が下がる。

まあ、かっこつけてみたが、単なるカンボジア歴史ヲタク必死というところであろう。
念願のAmonierの原著が手に入ったのでいずれ地図をブログで紹介したい。英訳版と違って遺跡は赤字で印刷されているので分かりやすい。それにしてもこの近辺は興味深い、10世紀から11世紀にかけての遺跡が点在しているのでその当時の歴史を考えるのに実に有益な場所ではないかと思われるのであるが。
調査が俟たれるところであり楽しみでもある。

2017年5月追記
答え合わせをCISARKさんや遺跡地図でやってみますと、
この時訪れた遺跡は、画像がないですが
Prasat Kralanh IK540 石材と陶片くらい。地元のおじさんに案内していただいてどことも知らず行った。
ブログ最初の遺跡は
Prasat Ta An /En IK542 
Prasat Lobeuk Run IK539
でした。」」

参考文献
1Etienne Aymonier"Le CAMBODGE Les provinces siamoises"Ernest Leroux,Paris,1901
2Aymonier,E,English translated By Walter E.Tips"Khmer Heritage in the Old Siamese Provinces of Cambodia" White Lotus,1999