カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

アンロン・ヴェン 国境の南

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本日は遺跡探訪もかねて訪れたアンロン・ヴェンについて紹介する。
(アンロン・ヴァェンといったほうがクメール語の発音に近いのかもしれない。)

アンロン・ヴェンはオッドーミエンチェイ州の北方の町でシェムリアプの北北東約70kmくらいのところにある。
シェムリアプからは車で4時間前後で、途中かつては盗賊の森といわれたようなジャングルの道を通ったりするのであるが、平和な今は普通に住民が自転車で往来していた。
アンロン・ヴェン自体は私的には静かな田舎町のイメージが、乾期の最後だったこともあったと思うが車やバイクの往来も多く、ごみごみした様子であった。この町の名は内戦時代はけっこう報道にも登場したらしいがとんと記憶になかった。

今回この町を訪れた目的はもちろん、遺跡探訪もあるのだが、以前話に聞いていたポル・ポト派の屠殺人といわれ、残虐さの急先鋒タ・モクの家というかアジトを見学するつもりであった。ついでに山の中にあるというポル・ポトの墓まで分け入ってみようかという心積もりである。

ポル・ポトによる民主カンプチアの恐怖政治が崩壊した後も、彼らの郎党はタイ国境に逃げてこのアンロン・ヴェンあたりも勢力下において、タイや中国、そしてアメリカなどの間接的な支援を受けながら内戦を続けたのである。重要なことはアメリカに追従する日本もポル・ポト派を支持していたということであるが、これはまた別の機会に述べたいと思う。
追記 この時代このアンロン・ヴェンはポルポト派の事実上の首都だったともいう。

そして国外の支援とともにポル・ポト派はチークや黒檀などの貴重な木材をタイに輸出して資金を作った。タ・モクは稼いだ金で銀の義足を作って着用していたとも言われている。
遺跡のレリーフや石像なども持ち出したといわれるが、これらは実はUNTAC後のほうが激増する。

例によって前置きが長くなったのでタ・モクの家の写真1を。
見えるかどうかわからないが壁面に絵が描かれているのがみえるであろう。こっちが作戦本部で、手前の木造が家族と住んでいた家らしい。アジトの一階および二階の壁面にはカンボジアの地図、アンコールワット、プレア・ヴィヘアがペンキでかかれており、連中がこういう遺跡も民族意識の高揚のつもりか重要視していたことが伺える。あるいは単に好みの問題かもしれないが。

タ・モクの家は池のほとりに建っており、眺めはいいがカンボジアの人から聞いたような美しさやロマンティクな感じはなく、やはり暗い気分にさせられてしまうのは、倉庫においてあった人用の鉄檻のためだけではないであろう。タ・モクは先述したとおり残虐さと苛烈さで有名で、フランソワ・ピゾの著書
カンボジア 運命の門」にもその激しい性格が描かれているが、裁判の前に先日死んでしまった。
そんなことを湖畔の風に吹かれて二階のテラスでボーと考えるとやるせない気分になってくる。
まあ私ごときの観光客が偉そうなことはいえないが、人間ってなんだろうか・・・その残虐性を自分の心に照らしてみるがゆえの憂鬱なのかもしれない。

暗い目つきで1万リエルの入場料を取りに来た若者にもうつな気分を抱きつつ、ポル・ポトの墓に向かう。
おっとその前にタ・モクの家においてあった、アンコールワット期のたぶん、ヴィシュヌ像の写真2を。
これはタイ国境近くの遺跡から持ち出したということで遺跡への期待はこんな状況でも高まる。w

早速車でタイ国境に向かったのだが、おどろきだ。この道は日本か?というくらい立派な舗装道がまっすぐ国境に北へと向かっている。タイの援助でできたというがタイの経済的な影響力を浸透させるためであろう。そのおかげで15分足らずでダンレックの断崖を登りきり、国境の市場、ポルポトの本拠地についた。
しかしあまりのひらけっぷりにガイドさんも混乱気味である。
もうすぐゲストハウスやカジノができるそうである。

市場はまさしく国境の町でいろんなものが売ってある。タイからの日用品軍のサプライ、象の歯といった珍品。探せば骨董もあるだろう。
で市場の中に木の柱がわびしく残るのが、和平合意に傾いてか幹部ソン・センを殺したポル・ポトを逮捕、有罪の判決を出した裁判所の跡である。写真3

そしてこの町の裏のゴミ捨て場で古タイヤとともに死体を焼かれたというポル・ポトの墓を捜して回ったが、何のことはない、来た舗装道の脇といっていい位置であった。道ができたせいで町裏というかつての印象ではなくむしろ町の入り口近くである。写真のとおり看板には史跡として扱おうと書いてある。ごみと一緒に焼かれたのは1998年4月ごろといわれているが、今はトタン屋根こそ当時のままかもしれないが、こぎれいで花なども咲いている。
線香を供えたあとすらある。
このことも含めて、私には語るべき言葉はない。やはりなんだかやるせないだけである。写真4

ガイドさんによるとダンレック山脈のがけのところにタ・モクのもうひとつの家があるとのことで向かうことにした。
と、市場のはずれとはいえ町中で写真5のように地雷撤去作業をやっているではないか。
人々が普通に生活しているそこにも危険があるのかとおどろいたが、これこそ、いいたくないがばからしい話であった。
というのも地雷探索、撤去作業をこんなところでしているのは、なんと将来の土地代の値上がりをもくろんでここら一帯を買ったどこかのえらいさんの「要請」によるためらしい。
まあそれもありなのがカンボジアの今である。

山道を20分弱行くと断崖の際のひらけたところに出て、ここにタ・モクの家もわびしくあったがその横は観光レストランみたいなのができていて、あずまやがいくつかあり、行楽地になっていた。なぜか七面鳥がいっぱいいたのでこれ食べるのか?と思ったが、あまり食べられている様子でもなかった。
平日の午後でほとんど人気はなかった。が休日はアンロン・ヴェンからの行楽客などでにぎあうらしい。

まあいろいろなことはおいといて、ハングオーバーでつき出した岩からアンロン・ヴェンの町などが遠望でき、なにも考えなければ楽しそうな場所である。しかしここで酒飲んで転落死する人とか出ないことも祈る。

さて、なんだかんだで平和になったからこそ私もここまで来れたのだと、ありがたく思いつつ元来た道を戻るが、途中急勾配のところに、かつては検問場でもあったらしい、タ・モクがケ・ポクなどに指図して彫らせたというポル・ポト派兵士たちの、いかにも共産主義時代に好まれたような民族主義的でプロレタリアート的な、つまるところ面白くもなく稚拙な石像が多少破壊されつつ残っていたので帰りに見てみる。

なんとまあ壊されつつもここもニャックターと同じ扱いで、もう祀られている。まあこの地帯ではポル・ポト派の支配が長かったこともあるだろうし、人の形していることもあるし、カンボジア人の死生観、宗教観によることもあるだろうが、これを考えたらこれもまた、アリということだろう。

こういうくだらないことをかつては即射殺されたであろうような場所でブツブツとつぶやけるのもやはり平和になったゆえんである。
つまりは過去のこととなってしまったということかもしれない。
カンボジアの人がポル・ポトと彼らの時代のことをどう考えるかというのは、彼らの問題であろう。日本人としての私としては、周期的に起こるこういう悲惨な虐殺と内戦の歴史に平和と自由とのありがたさをかみしめつつ、彼らに感謝されたりしているが、カンボジアに対していいことばかりしたわけでないわが国の隠れた罪についても認識しておこうとおもう。まあ私自身も罪深いのであるが。

さて次回は、あるのかないのかアンロン・ヴェンの遺跡について述べて行こうと思う。
いつになるのかわからないがあまりネタがないながら続けていきます。

参考文献 フランソワ ピゾ「カンボジア・運命の門」2002、講談社
ほかにも参照したが後日修正します。出先からなのでw