カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

西バライの遺跡の碑文について

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 前回に引き続き、11世紀に造営された西バライ西方に点在するいくつかの遺跡について検討を続けて行こうと思うが、今日はAk Yom出土のうちの3つの碑文の翻訳を、無謀と無知と無遠慮で試みてみよう。底本はG.Coedesの”inscriptions du cambodge vol.后P57-59。と同vol.爾任△襦あとは参考文献のとおり。


写真は長年悩んでいたが個人的使用でコピーライトの明示があれば使用可能だと分かり早速つかうが、Google Earthより
西メボン西部の衛星写真である。ご覧のとおり、西バライの中にくっきりと何らかの遺構がみえる。これは干上がった時の田畑ではないかと思われる向きもあろうが、8-9世紀の、アンコール王朝最初の王とされるJayavarman2世の最初の首都Amrendrapuraであろうといわれている。それにしても、Google Earthは本当にありがたいものである。色々未見の遺跡を探しているだけで軽く1日は過ぎていく。

まず一番古いシャカ暦626(AD704)年銘K753から。これは中央聖域の南門東側面に記されていたとのこと。

セデス先生によるとこの碑文は残欠で高さ1mはあるが右半分(向かって左)しか残ってないらしい。
説明だけで解読はされてない。
25行あるらしい。

1行目は シャカ暦623年(西暦704年)pan~cami-?
2-10行目まではランクが高い順に尊号が散見される。4行目とたぶん7、10行目には
vrah kammratan an(VKA)の尊号が見受けられる。文章の一部なのか、神に始まり、王か支配者かいろいろな人物を列挙していたのかはわからない。

11行目に初めてYudhesvaraという名が残存
12行 nra gi brahmatya・・・
13-14行目はまた尊名のみ
15行-20行目はまた順番に人の名20行は kumara…でここら辺まではそこそこの位階のある人の
羅列だったのかもしれない。
21-22消滅
23sre am.noy
24moy
25・・・


これだけじゃ何のことかという感じだが、この碑文もこの寺院とその所領を神に奉じた記念のものかもしれない。
それと、なんとなくこの8世紀初頭の尊名のランキングが分かるのかもしれない。

また唯一残っていた人名についてはよくわからない。Yudhesvaraという名もこの碑文以外には見うけられないようである。11列目でもあるし神としてか人としてか、どのくらいなのか?

しいて言えば西バライの反対側、北東のprasat Kok Po出土の碑文(近日公開予定)、K814(シャカ暦926年:AD1004年銘)
にマハーヴァーラタの登場人物であるyudhistra(ユディシュトラ)の名が見られるが、地理的、歴史的な関係があるのかないか分からない。

とりあえずおいておいて。

次行ってみよう。
今度はそこそこ読めるという、シャカ暦X39年銘のK749である。この摩滅してしまった100の位が悩ましい。これは中央聖域の東門南面に記されていた。

まずは訳から。迷訳疑いなしである。

1-10行目
シャカ暦X39年新月の最初の日、Asadha(5-6月),土曜日?にnaksatra PunarvasuとMratan~(尊名) Kirtiganaは
Vrah Kammratan An Sri Gambhiresvara(聖なるガンビーレシュバラ神)に寄進を定めた。
女性たちの名前は・・・
2lih(単位)の米・・・荷役用の二頭の牛・・・何頭かの牛・・・衣類・・・
Mratan~ Kirtigana、Tan~某(?)、・・・および名が・・・、K・・・、すなわちVKA.Sri Gambhiresvara(聖なるガンビーレシュバラ神)に奉じて寄進を定めたMratan~ Kirtiganaの擁護者である・・・
11-15
Mratan~ Kirtiganaの僕奴たちを彼の子供たちに与えて彼らを、VKA.Sri Gambhiresvara(聖なるガンビーレシュバラ神)に奉仕させた。
彼はHariganaに女性の僕奴 Ku Ame Lamvan1名,とKu・・・男性Va Kanroy1名を与えた。
彼はHarivahanaに男性のgho Va Srac ta Bhagya1名を与えた。
彼はTan~Gayに男性のTai Praton1名を与えた。
これらの生計の手段とMratan~Kirtiganaの子供たちはVKA.Sri Gambhiresvara(聖なるガンビーレシュバラ神)に奉仕するものである。


フランス語の指示代名詞の処理があやしいので適当なところだらけである。
が、大体こんな意味であろう。

まずこの碑文の年代であるが、セデス先生は最終的にシャカ暦639年、つまり西暦717年としたようである。(isncriptions du cambodge vol.爾料躡?悊らだが)
この碑文に出てくる神VKA.Sri Gambhiresvaraについては、この名が出てくる、同じAk Yom出土の碑文K752のところで触れてみたい。

Mratan~Kirtiganaという高位の者がこの神を奉じたことを記念して記された、クメール碑文のよくあるパターンのようである。奉じる田畑や奉献する牛などの家畜、物品、たぶん子供たちと、僕奴の名前とが列挙されていた。
が、歴史上とりわけ重要な人物の名は見当たらないようである。
kirtiganaの名もこの碑文以外では見受けられないようだ。

では、最後(本当はもうひとつK815があるがセデス先生も訳せない状態だったようだ)
南東の建造物にあった碑文K752.これは九曜?9つの惑星の石?(navagraha)と書いてある。
そういう形状なのか紋様なのかは現物見てみたいが分からない。

訳?
シャカ暦923年(西暦1001年)Asvayunaの新月の日、日曜日 naksatra Citra、この石は苦行を実践するSten~An(尊名)?によってVKA.Sri Gambhiresvara神に捧げられしものである。


これを見る限り、西バライができたとされる11世紀の最初の年までは、この寺院は無事で何がしかの人々によって信仰されていたということであろう。このことから西バライがSuryavarman1世の治世後半期に造営されたのであろうとも推察されているが。

さてなぞは多いが、この神様VKA.Sri Gambhiresvaraの実体を知る手がかりのみ記しておこう。
の名はコンポントム州のKuk Rokerの6世紀?の碑文をはじめ、9世紀のSambor prei kuk出土の碑文、そして前日ご紹介したこの寺院の近くの寺院、prasat Kas Hoの9から10世紀の碑文にも認められるという。

コンポントム州、それもサンボープレイククで散在しているのが興味深いが、
少なくともこの神様は西バライ周囲においてそこそこ信仰を集めることはできたのかもしれない。Kas Hoの碑文を検討してみないと分からないが、まあ関連付けるにたる時間、地理的近さである。

ヒンドゥ神(シヴァ神)と地元の神との混交っぽい名前ではある。
サンスkリットが分かればもう少し突っ込めるのかもしれないが、今の私はこれくらいしかいえない。

これら3碑文を時代順に並べてなんとなく眺めてみると、一番古い、西暦704年の碑文には神と、たぶん王の名がVKAという尊号とともに連なっていたのかもしれない。ほかの碑文に比べてその文章に対する出現度が高いため。
前回述べたとおり、この時代はたぶん不運な女王Jayadeviの治世であろうと思われるので、彼女も何らかの関与をこの寺院にしていたかもしれない。
がこれは推察を重ねたものにすぎない。

そして2番目の碑文は時代の同定が難しいが、たぶん、西暦717年銘。このころのこの寺院はKirtinagaという、高位の人物の一族がVKA.Sri Gambhiresvaraという神に奉る寺院としてあったようだ。というより寺院に近辺の農地や僕奴を奉納したということは、この一体の支配者となっていたのかもしれない。
西暦717年とすれば、このころJayadeviはもういなかったかもしれない。唐書の記載からしても真臘の分裂後のことであり、このあたりがどうなっていたのかもなんとなく想像される。

3番目にいたっては西暦1001年。それなりの位階を持つ誰かがこの寺院に石を奉納した。
このことは少なくともこのころまでは、この寺院は信仰を得ていたということであろう。
そのために、数十年後の西バライ造営に当たって、ある程度残存するように意図的に配慮されたのかもしれない。

とりあえずこのAk Yomについてはこのくらいにしておこうと思う。しかしここら一帯の遺跡については今しばらく触れていこうと思う。

20080217追記
この地図は不正確だ。のちほど修正しよう。

昨日プノンペン国立博物館に行ったら、見逃していた!

シュリーヴィジャヤ様式のマイトレーヤ弥勒菩薩)がここから出ているではないか!

だからなんだといわれそうだが、これが8世紀カンボジアがジャワの支配を受けた説の一つの傍証に
されたのかもしれない。

答えの鍵は多分西バライ西側の水の中Amarendrapuraにある、と思う。

ついでに書いておくが、僕奴と訳しているTai、Si あるいは後のKhnyom(おお日本語の僕と全くおんなじ意味だ)は権力者の命令で入植した寺院付の住民で、むしろ碑文に名前が残るのであるからservantではなく、住民の中でもまとめ役、頭領みたいな人たちだったかもしれないとすら考えているが、どうだろうか?
もっともねずみとか、犬とか,陰部が好き(女性の名らしい Vickery,Mによる)とか、変な名前もあるがw。

戦争のことも考えなくてはいけないので、屯田兵のような働きだったのかどうかはナゾではあるが戦争について書かれた碑文を探してみたいとも思う。

そういえば欽明天皇543年9月に扶南からやってきた奴隷の名前は残ってないな。。。





参考文献
G.Coedes"INSCRIPTIONS DU CAMBODGE"vol.5,8 EFEO,Paris,1953,1966
L.Palmer Briggs"The Ancient Khmer Empire"White Lotus,Thailamd,1999