カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Charとその碑文

今日はプラサート チャーについての紹介である。
この寺院も前回のKok Po同様Puokから行けるが、実はアンコールトムの北西1マイル半ほどの位置である。
時代は碑文の解読によって、西暦979年に建立されたとされている。

このチャーという名はまさしく、この碑文という意味である。
クメール語で碑文のことをセイラー・チャー・ルーッという。まさに碑文の寺院である。
しかしながら写真で示すとおり、荒れるがままになっているのが心痛である。

イメージ 1


しかしながら、中央の塔がAymonierの記載どおりのプランで現存していることは僥倖である。
いわく、通例通り、3基の塔が東向きに並んでいる(私は勘違いして西向きと思っていたが)。
向かって左側の塔のみが砂岩でできており、残りの二基はレンガ塔である。しかし扉などはもちろん砂岩でできていて、中央塔の門扉の右側の石壁に45列、左側のそれに38列の碑文が今も何とか残っている。私は左側の塔に碑文があると記憶していたが。
どうもエイモニエの記載とは記憶が齟齬をきたすのであるが、それはさておき。。。

往時をしのぶには散乱している屋根飾りのミニチュアが参考になるだろう。こんな形の塔だったようだ。
R
イメージ 2


やはり一番近いのはクレアン様式になるのであろうか?リンテルやデヴァダなどは見ることもできなかったのでなんともいえないが。

ただし碑文(K257)は堂々たるものである。セデス先生も訳しているようだが、とりあえず私にはとっつきやすい
Aymonierの要約を掲載しておこうと思う。

シャカ暦901年(AD979年)のJestha(5-6月)、上弦の月の第5日目、日曜日(pusya naksatra)、
Vrah Kammratan An Jayavarman(6世とAyominerはしているが5世であろう)王はSten An(バラモンの息子)Vrah Guru(聖師)と数人のKamstenの資格を持つ高官に勅令を発した。

王の命ずるところは、一族が定住する村落を設立し、シヴァリンガや逝去したKamsten S'ri Rajapativarmanの面影を持つParames'vara、その息子Kamsten S'ri Narapativiravarmanの姉とMraten Khlon S'ri Jayayuddhavarman(この人は土地を購入したスポンサーくらいのことしか書いてないらしい)の祖母の面影を持つ二体のBhagavati女神、Bhadresvara(sivaもしくはPrames'varaの別名)NarayanaやS'ri Campesvara(いずれもヴィシュヌ神の別名)といった神々を建立すること、であった。

そのあと碑文でこの寺院の領地の境界と、この土地の大半が、Kamsten S'ri Rajapativarmanによって購われ、その信心深い忠実な働きを称え、一部はその息子であろうと考えられるKamsten S'ri Narapativarmanによってあがなわれたことを述べている。

Aymonierはそのあと、この土地の一部が面白い理由で交換されたことを述べた一節を引いている。
すなわち
”王宮の寝殿の第三位の護衛(日本で言うと蔵人だろうか:どっちにせよ殿上人クラスだ)Mratan Hrijayabhavaのとげサボテンのはえた土地がKamsten S'ri Narapativiravarmanに譲られた。
というのはこのMratan HrijayabhavaがKamsten S'ri Narapativiravarmanの象を2頭殺してしまったからだという。
しかし、これはKamsten S'ri NarapativiravarmanがMratan Hrijayabhavaの土地の米を食ってしまったから
のことらしい。
しかしどうも地位的に下のハリジャヤバーヴァさんは謝罪と賠償を要求され、代わりに差し出す象がいなかったので土地をあげたらしい。
まあ、そこにシヴァリンガとLingapura(このあたりのことかどうか?)の神様とを建立するようにということで上げたとのこと。

あとはそこに配置された107人の僕奴と父親であるRajapativarmanの面影を持つParames'vara神の建立について記されている。

左壁の碑文については、38行。文中に出てくるのはシャカ暦916(AD994)年。
Aymonierは端折っているがやはり建立者Kamsten S'ri Narapativiravarmanについて記されているようだ。がこっちでは彼はもはやKamstenよりも低位のMratan Khlonの称号となっているらしい。

彼がVap(これも位階を示すらしいがたぶんより低位)から土地を買い集め、ジャヤヴァルマン(多分)5世王の勅令に従ったことを記しているらしい。それと若干の、多分土地にまつわる裁判記録と、例によって
土地に配された僕奴、この土地で取れたのであろうハチミツと蝋(ロウソク、ハニーワックスかどうか?)についての記載があるらしい。

この碑文はいつか読んでみたい。
ちなみに扶南以降のカンボジアのことを中華では真臘というのはなぜかという議論がなされているが、
このカンボジアでは良質の蝋が取れたからではないかという意見もある。(参考文献2)これはありえる。てか一番しっくりきやしないだろうか。

長々と今回もやっちまったが、まとめると、

一応、寺院が勅令で建てられた。
偉い人(kamsten Sri Narapativiravarman)の親父が功績があったらしい。
親父さんに似せて神様作れと。
しかし金出すのは建てさせられる偉い人のほう。
土地をめぐるいざこざがあったらしい。でも偉い人が勝った。
この土地ではハチミツとロウソクが特産らしい。
ひょっとしたらここはLingapura(リンガの都市)といわれていたのかもしれない。

何より大事なのは
息子は父親から称号位階を相続した。貴人は世襲制だったようだ。しかし、油断していると
格下げされるぞと。
なにをしでかしたんだ?あるいはなにもしなかったせい?
901年に建立の碑文を記して15年。彼にもいろいろあったのだろうけど。。。
それと、この称号(位階)は少なくともこの時代は厳密か?
僭称(はったり)は許されなかったのか?
このことをすぐ王たる称号 Vrah Kamratan Anに帰納させることはできないかもしれないが。。


いろいろ分かって面白いがまあ素人談判はここまでとしておこう。

土地をめぐる裁判の碑文は他にもあるようだし、これもいずれ精読できたらと思う。



参考文献
1E.Aymonier"le cambodge Ⅱ” いつもの本。お世話になってます。
2大橋 久利 , Truong Mealy
”ヴェトナムの中のカンボジア民族―メコンデルタに生きるクメール・クロム ”
古今書院 1999
大橋さんが一人でしゃべっている感はいなめないが、上記引用したところなどたまにいいこという。
それにしてもメコンデルタに散らばるクメール遺跡群。。。
いつになったらいけるやら。