カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Trapeang Thnaol Chhouk

えー。ガラにもなく観光案内なぞして、かえって混乱しましたが、

本日はいつもの調子に戻りまして、遺跡のご紹介と参りたいと思います。

昨日バイタク兄ちゃんの知ったかで、自信満々連れて行かれた藪の中の遺跡から1kmほど南下しますと、
ここは確実にドンぴしゃり、

Prasat Trapeang Thnaol Chhuokに到着します。
こういう綴りらしいので少し変わっておりますがお気になさらずに。

ここは東側に確かに池があり、その西にちょっとした土台、そこにレンガの遺跡が立っております。
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建造物の数は7、主祠堂を中心に南北に東向に3基の祠堂、その後に、千鳥に(隙間からみえるように)2基の祠堂がやはり建っていたようですが、後、つまり西側の二基は荒れてます。

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これは後列南側(南西)の祠堂ですが、ほとんど壊れてます。
碑文K.351が出たのはここからではないかと、思われます。が、この碑文は見つけられませんでした。

特筆するべきは主祠堂の列で、各々が長方形の、前室を持っております。

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これは南側の祠堂ですが、こんな感じです。荒れ具合もこんな感じです。
出来れば前室から入って見たかったのですが草木とレンガの瓦礫、土の堆積と、人為的破壊によって
無理でした。

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これはその南側(記憶が怪しい)のリンテルですが
一目瞭然で、盗掘されております。上から覗き込むしかできませんでしたが。。

下のアイラヴァータの繊細な彫刻にご注目。拡大してみました。
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さぞや美しいインドラ神だったことでしょう。。。

気を取り直して、主祠堂の両石扉には、碑文K.350が残されています。
シフトチェンジして読んでみますが・・・

これが悩んだ。。。
前室がある上に夕暮れで採光まったくなく、狭いため写真がぜんぜんうまく撮れなかったこともあるが
AymonierもCoedes先生も、北の7行はよいとして、南側は15行と書いているのである、これが。

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・・・ブレまくりであるがどう見ても11行にしか見えない。古クメール語であるが。
ここは違うのか?別の遺跡かと最初考えた。
しかし、planはほぼ、Aymonierの図のとおりだし。。

Aymonierも最初の4行は字体も小さめだが、よりきれいで若干古そうと書いている。
Coedes先生はAymonierの観察は不完全といいつつもやはり、最初の4行と5行目からは続かないと
言っている、多分・・・

で、見えているのが5行目からだとすると、ところどころ拾い読みすると、Coedes先生の解読と一致しそうなので、やはりこれでいいのかということにしたが。

しかし最初の4行はやはり心眼を以ってしても見えない。。。

これはもう一回行って来いという事ですね?

とりあえず、気になる内容だが、
斜め読みで。。。Coedes先生の訳によると、

最初の4行はまたもや出ました偉大なるV.K.A Rajendravarman王が
Kamsten. An~Rajakulamahamantri 一人飛ばして
Mratan~Cri Rajendraditya
Mratan~Cri Nr.patindraditya
Mratan Cri Rajopakalpa
の各高官に。。。多分この寺院を作って寺領とそれに属する人畜その他の取り決めの命令を、今から書こうというところで、止まっている。


5行目からは、何で続けて書いたんだ?となぞであるが、別の碑文である。

C.antipadaという名の???わからない。。。

それからも不確かだが、Sten Acarya Rudra(神職?)が王室に行くのに信頼に足る人物を求め・・・
途切れて

Lingapura神の神官Sten Pan~cagavya(彼は別の碑文に登場してそれは西暦1006年銘とのこと)と、将来それを継ぐ彼の子孫のものである、とか書いてあって、その後は収めるべき米の量、僕奴の名簿など大体いつものパタンが続いているようだ。

・・・

このSten Pan~cagavyaさんは反対側の碑文では主役張ってるようで、彼が寺院に寄進した奴僕のリストから始まっているが、これは完全に近いので後日訳出してみたい。。
もう一つの碑文K.351は年号があり、
シャカ暦914年つまり西暦992年銘。これも後日暇なときに。。。
碑文モード終わり。


えーあとはリンテルなど眺めて時代を確認してみましょう。
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残欠で摩滅も進んでいますが、なんとなく雰囲気はわかるかと。

昨日ご紹介したリンテルと同じようなつくりですが、唐草の花綱(アーチ)の部分がとても繊細です。
これもよく見ると真ん中の神(インドラ神)は削り取られてますね。

多分、この寺院は私的レンガ塔王Rajendravarmanの発起で、しかしながら碑文の断絶から、彼の死によって中断したものの、二十数年して完成した時に、功労のあった貴人というか神官が碑文を残したのではないかと、想像されます。全然違ったら失礼。

夕暮れが迫ってたのもあり、ばたばたしてまとまりのない見学でしたので、再訪したいと思います。
なんといってもあのなぞの遺跡や、ほかにも近隣に遺跡が眠っているようです。

参考文献
Aymonierはデフォです。
1.G.Coedes”INSCRIPTIONS DU CAMBODGE Ⅵ,Ⅷ”EFEO,Paris,1954,1967