Prasar Sema~Choam Khsantよまたいつか。
本日で、とりあえず、ワタクシが訪れたChaom Khsantの遺跡は、ネタ切れです。
あ。去年の春に訪れた未紹介の遺跡が一件ありましたが、これはいずれのうちにかまた。
本日はPeasat Sema(Semaとは結界のことのようで、寺院の四隅や境界線に置く石もSemaといってました)
昨日おとといの水牛の角寺院から、町に戻りかけて、また少し西に行きますと、
大きな貯水池、ため池か、その跡があり(ダムというのはいいすぎかもしれないので訂正)、
ポルポト時代のもののようで、土手にコンクリの水門が見られます。
もちろん乾期なので水はありません。内部も田んぼになっていましたが、今のところ休耕中。
大きな貯水池、ため池か、その跡があり(ダムというのはいいすぎかもしれないので訂正)、
ポルポト時代のもののようで、土手にコンクリの水門が見られます。
もちろん乾期なので水はありません。内部も田んぼになっていましたが、今のところ休耕中。
その中を、多分東の縁に沿って南下していくと、その土手上というか、少し外の感じに遺跡があります。
Choam Khsantの町からは南西に5,6kmってとこでしょうか。まあ近いでしょうが雨期のアプローチは上記の如く困難かもしれません。
Choam Khsantの町からは南西に5,6kmってとこでしょうか。まあ近いでしょうが雨期のアプローチは上記の如く困難かもしれません。
とりやえず。
こんな感じで東向きに立ってます。レンガ造りだったようで、この石の枠の前には
発掘のトレンチではないと思いますが、レンガの基壇が露出してました。
レンガの散乱もしております。
リンテルと石柱のアップなど。
発掘のトレンチではないと思いますが、レンガの基壇が露出してました。
レンガの散乱もしております。
リンテルと石柱のアップなど。
リンテルがアップしすぎだという意見は受け流しつつ、なかなかの出来。
真ん中のインドラ神がまたやられている。。。
真ん中のインドラ神がまたやられている。。。
やはり、ここももうこの地域では言いあきましたが、10世紀中葉くらい
プレループ様式に近いと思われます。
プレループ様式に近いと思われます。
で、今日の碑文。
この砂岩の石扉とリンテルだけ残るパターンもこの地域で多かったですが、
ここの場合、石扉の右側(南)に
上に10行
下に多分25行の碑文が残されています。つまり一通り完成していたのでしょう。
ここの場合、石扉の右側(南)に
上に10行
下に多分25行の碑文が残されています。つまり一通り完成していたのでしょう。
が、これはまだコード化されてないようで、解読したものが探したけど見つかりません。
とりあえず結論から言って碑文は上パートが西暦1004年、下パートは西暦968年でした。
それだけ考えるのに3時間以上かかりました。暇人だ。
とりあえず結論から言って碑文は上パートが西暦1004年、下パートは西暦968年でした。
それだけ考えるのに3時間以上かかりました。暇人だ。
てかCoedes先生以降だと、ほとんど分からない。
コード化されていないすなわち、丸写しできない、困った。。。
最初同じ碑文のサンスクリットパートとクメールパートと考えて悩みまくり。
とりあえず、どっちも文字は読もうにも、自力では無理。
幸い年号から始まっているのでそこだけでも。。。
幸い年号から始まっているのでそこだけでも。。。
これで、時代が確定。
上 シャカ暦926年・・・。
上 シャカ暦926年・・・。
むう。
西暦で言うと1004年。ちょっと時代が下りすぎである。
もうプレループ様式なわけない。
地方なので伝播が遅れた?ありえない。このリンテルの彫りはかなり上手であるし。。。
西暦で言うと1004年。ちょっと時代が下りすぎである。
もうプレループ様式なわけない。
地方なので伝播が遅れた?ありえない。このリンテルの彫りはかなり上手であるし。。。
しばし悩んで、下のパートを見ると、
最初の文字がViという字にしか見えないが、その次二文字はまごうことなく数字で、90シャカと書いてある。
てことはViに似ている数字、8とみてもおkか。
そうしたら、シャカ暦890年=西暦968年、これでおk。リンテルとマッチ。
Rajendravarman王死んだけど。。
最初の文字がViという字にしか見えないが、その次二文字はまごうことなく数字で、90シャカと書いてある。
てことはViに似ている数字、8とみてもおkか。
そうしたら、シャカ暦890年=西暦968年、これでおk。リンテルとマッチ。
Rajendravarman王死んだけど。。
上の部分と下の部分は別々の碑文ということか。
しかし、となると
普通上から先に書くもんじゃないのか?上のが年代あととはどうよ?
何でこんな下の方から先に書いて、あとで上の方に書いたのか?
普通上から先に書くもんじゃないのか?上のが年代あととはどうよ?
何でこんな下の方から先に書いて、あとで上の方に書いたのか?
なんてことはない、この石扉が土に埋もれかかってるのでそう見えるだけだった。
最初968年、いい高さから碑文を書いてたけど、
1004年、何か付け足すことがあって碑文をあいてた上のスペースに、殴り書きのように書いた。
1004年、何か付け足すことがあって碑文をあいてた上のスペースに、殴り書きのように書いた。
月日が経って埋もれていき、上の碑文がちょうどよい高さに見えるようになった。
下のは埋没しかかって低くなっちまった。
それだけ。
下のは埋没しかかって低くなっちまった。
それだけ。
単純な話に、3時間くらいかかったorz。
が、もう一つ疑問。なんでわざわざ狭い上側に碑文追加したのか?
なにせ左側は全くフリー、何も書いてないのに。
普通こっちに書くだろう。。。
なにせ左側は全くフリー、何も書いてないのに。
普通こっちに書くだろう。。。
よっぽど、最初の碑文と関係深い内容であろうか?
読めないとワカンネ。
読めないとワカンネ。
以上メモ糸冬。
意味もなく背後から撮ってみたものです。
けっこうリンテルが大きく感じられますね。
石の組み合わせ方もまだ古い感じが残ってます。
けっこうリンテルが大きく感じられますね。
石の組み合わせ方もまだ古い感じが残ってます。
ここもレンガ塔の前に前室があったかもしれません。なんか構造が東西に長方形に砂岩の柱が落ちていたので。。
・・・
とりあえず、曖昧なままですが、ここらでChoam Khsantの町とはお別れですわ。絶対また行こうと決意しつつ。
とりあえず、曖昧なままですが、ここらでChoam Khsantの町とはお別れですわ。絶対また行こうと決意しつつ。
遺跡以外でも色々面白おかしなことがありましたがそれはここでは語ることではないので置いといて、
明日から少し場所を移してまた、遺跡ご紹介したいと思います。
明日から少し場所を移してまた、遺跡ご紹介したいと思います。
今日は内容薄いな。。