カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Travの碑文のナゾにちょと迫る

えー。
本日は予告したとおり

昨日ご紹介した遺跡、Prasat Trav(Trau Trao)
の、碑文についてじっくり眺めて参りたいと思います。

はいほとんどテキストです長いです読むのも疲れますまだ週の初めですし適当にとばしてください。

というわけで、風景写真が出るまで飛ばしてもかまいません。

明日まとめたいと思います。

碑文は石扉の右側(寺院から見て)に17行。比較的きれいな字で書いてあります。
がAymonierは誤記が多いとかいてます。Coedes先生は何も言ってないのでそこまでひどくはない
と見てたようです。

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ではとりあえず、碑文を読んでいきましょう。
ここら辺から話が長くなります。
1-6行目前半部
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1-8行目後半部
イメージ 2

7-10行目前半部
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9-14行後半部(*とアンダーラインのところご留意)
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11行ー16行前半部 17行目
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15-16行後半部
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写真がちゃんと撮れてないので変な感じです。ていうかこんな写真
( ・_ゝ・)ツマンネ
とお思いかと思いますが、後のネタ振りもあるのでご辛抱くださいませ(涙目)。

あとn~
とかc.とかm.とかは我流ですので気にしないでください。

訳文です。ろーま字は神様や人の名前と、地名とか名詞、カッコ内はクメール語そのまま。
以上何も気にせず飛ばしてください。

(聖なる、Vrahがないことに注目)K.A.Daranindravarman:ダラニンドラヴァルマン王の治世、
シャカ暦1031年(西暦1109年)のKartika(陰暦11月、多分)の上旬の第3日、木曜日、
Khlon Vala Darmasilaは、

地区の法廷のメンバー(Vrah sabha visa)であるVrah Cri Yasodharapandhitaと、
商人の監督官(mula tmarvac vyavahari)であるKhlon Vala(称号のみで名がない:以下この称号はK.Vと略)、
地区の長官(Khlon Visaya)の代理、
Trapek(果物のグァヴァ 地名かもしれない)の学生(ヒンドゥ教の聖職者の、ってことだろう)、
Khlon Bhutasa,と

K.V.Dharmmasilaの全ての親戚、
メインのK.V.Ase Dharmmasilaに始まって、
K.V.Lamvan、学生の長であるKam Vishnukala、
Ten Tvan Dharmmasila、
Ten Tvanジュニア(上の息子)
とK.V.Dharmmasilaの父親であるVrah Sre Vrai(直訳すると聖なる森田さんだ)と、

一堂に会して、
Khlon Vala Darmasilaの領地とそれに属する奴僕(Khnum)と、そこでの生産物とのリストを点検して、Lingapuraの神と、死亡した王女(Kanlon Kamraten An)を讃えて奉納する(のにリストを用いる)ため、協議した。

奴僕の名前リスト
(Si=男性、Tai=女性といわれています。意味が分かったのだけ名前の訳も)
名前はTai Thayak Kvan, Tai Paron(ソテツ),(*後述 Tai Kampit:ナイフ)、
Si Vara Jyvan(エクセレントな槍),Si Kanthet,Si Kamvas,Si Kampran,
Tai Vija(もしKamvijaなら良家の意味になる?),Tai Kanjon(魚の名?),である。

これらのSi,TaiはVnam Vyak の土地に隣接した、領地のStuk Vryanの村に住んで、Lingapuraの神に捧げるため 毎年 7 Thvan.(単位 大きいらしい)の米を脱穀精米して収めることを定める。

(Stuk Vryanで)もうひとつのSvay村に隣接する地所では、亡き王女とStuk Vryanに存在する神の前にあるアスラム(これがこの寺院のことであろう)のために、毎年5thvanを脱穀精米することを定める。

Kamlun Srukの東隣にある囲まれた土地は、そこにアシュラムがあり、2面の田んぼはChpar Ransi神を讃える必需品に供される。(ちょっと誤訳を手直ししました。)
糸冬 

とまあ、なんだかえらいのはえらい人らしいがDharmmasila閣下の個人的領地についての取り決めの親族会議の議事録のような碑文ですが。

この碑文について考えてみよましょう。

まず、この時代西暦1109年当時、ダラニンドラヴァルマン1世王の治世、とある。

彼の治世は1107年から1113年までと考えられていて、彼のおいの息子こそがアンコールワット
王 Suryavarman2世で、のちに彼を瞬殺して簒奪する運命にありますが、このころ少なくとも王位について1年、支配はこの地にも及んでいたようです。

考えてみると、
彼の父親Jayavarman6世王は、タイの北東部Mahidharapura出身の一族で、後世ののJayavarman7世もこの系統の血族と考えられています。つまり、アンコールの地から、本拠地であるタイの北東部への道は彼らの要衡であったので、その途中にある、この一帯まで当然 支配下においていたことでしょう。

(追記 いやだからこの寺院は王道とは関係ない場所にあるとm(。_。; ))m ペコペコ…。
ただし、アンコール地域から北東にタイ国境はダンレック山脈を越えてタイのコラートあたりまでは当然支配下にあったと考えていいでしょう。)

しかし、彼はVrahという称号をつけられていません。これから先彼の碑文でどうか、調べると
彼の立場が分かってくるかもしれません。

また、碑文上最初に出てきた王様ではありますが、以降全く触れられていません。
扱いが小さい感は否めませんが、勅令ではなく、一地方の豪族の碑文ゆえかもしれません。

碑文を書いたのはKhlon Vala Dharmasilaという高官のようです。多分自分たち一族の土地の境界を決めて、Lingapuraの神の碑文にも出てきました)や、Chpar Ransi(竹の庭)の神、そして亡き王女のために精米や生産物を奉納する旨取り決めしたのでしょうが、これは表向きで、土地境界の策定が本来の目的ではなかったのだろうかと推理されます。

この時代も土地の所有権訴訟は結構あったみたいです。協議に裁判所関係のお役人も顔出してますし。

それにしても、

1.Lingapuraの神とは?
2.Chpar Ransi(竹の生えた庭)の神とは最後に突然出てきたが何の神さま?
3.亡き王女とはどなたかな?

という疑問がわいてきます。

1.についてはあちこちで碑文に名前が出てますが、今の時点では私的には推測もつきません。
シヴァ神系であることくらいです。
(Prasat Char、と、ああ忘れてたPreah Neak Bousの7cのも出てきました)
2.についてはCoedes先生が触れていますが、仏陀ではないかという推測もされているようです。

3.についてはVijayendralaksmiというダラニンドラヴァルマン1世王から見ておばあさん(?)ではないかとのことですが(読み違えている可能性もあり)。

王本人も甥に子がいるくらいだから普通は若くはないはずでしょう。
これらのナゾはまた後日分かり始めたら考察して見たいと思います。

でこの領地に入れられた奴僕のみなさんですが、なかなか名前がユニークな方もいます。名前の意味が分からない方もいましたが、今回は碑文もまあまあ短いので、読んでみました。

って意味が分からない方が多いですが^^;

それと、碑文写真の4枚目の*のところ

明らかに書き忘れてしまったので、あとで書き足したってのが900年経った今でもありありと分かります。

ちょっとしたミスが命取りで孫子の代までどころか、こんな未来にまで、聞いたこともないような遠い国でツッコミを入れられようとは、書いた人も予想だにしなかったことでしょう。

ブログなぞ書いていると、なんとなく親近感が。。。

それよりも
どういういきさつで、彼女の名前が抜けてたことに気づいたのか、が知りたいところです。

書いたほう(エライ人のほう)のだれかが気づいたのなら、
親族会議とかいろいろ人集めてリストのチェックまでしときながら、なぜ抜かした??
とツッコミが入ったことでしょう。

もしこの、ナイフって名の女性自身が「ちょっとあたいの名前どうしたのさ!」っと飛び出しナイフをジャキンとかざしながら書いた人に詰め寄って行ったとしたら、ちょっと面白いなと妄想できます。
・・・どんなスケバンですか。

てかもしそうだとしたら、彼ら彼女らは別に奴隷(神の前ではみな奴隷でしょうが)階級ってわけでもない、ってことの後押しになるのですが、まあこれは妄想の産物ですね。

・・・
さてこの碑文が書かれたのが1109年だとすれば、この寺院の建立もそのくらい、と
普通なら考えますが、ここは違うのではなかろうか?
と思わざるを得ません。

ここのアシュラムは碑文が記される前から建っていた、ということが充分推測されます。


ちょっと長くなりましたので分割します。
続きは明日にしてあとは、普通の写真でもご覧くださいませ。

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南面から。

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東北東から。
とまあ、遠くから眺めてみましたが、
これらを見るとこの一基の祠堂のみの遺跡だと分かります。
つまりこれは本当にアシュラム 瞑想とか修業用だったのかなと。。。

おまけ

イメージ 10

鳥打ち少年の獲物。
まだ小学校に入る年ではないようで
小学生が撤退後もうろついて遊んでました。

何の鳥でしょうね?食べたりはしないといってましたが。
ヤヴァイ鳥(イエローリスト以上)ならこっそり教えてくださいませ。
即効画像消します。

参考文献
1.G.Coedes" INSCRIPTIONS DU CAMBODGE vol.Ⅲ(p97-99),Ⅷ”BEFEO,Paris,1951,1966
2.Saveros POU"DICTIONNAIRE VIEUX KHMER-FRANCE-ANGLAIS(英語クメール語でも表記)"
Cedoreck,Paris,1992:決定的にクメール語表記の見出しを欠いている。が、その分我々外人にはありがたい。本の瓦礫からやっと発掘した。