カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Kdei Ta Kom(Ta Kam-、Prasat Kol- touc)その1re

えー。

昨日紹介いたしました橋の周辺には寺院などの遺跡が結構あることは
もうグーグルアースの写真などにてご承知かと思われます。

この一帯は昨日の写真で見たとおり、王道の西に広がっておりますが、
寺院の上にもっとも大きな正方形の城壁の跡らしきものまで見えてます。

多分古代都市であったのではないかという妄想だけで1時間半は過ごせます。

しかし、今日からは昨秋訪れました二つの遺跡
Kdei Ta Kom(KeamでもKamでもなくKo:mが一番近かったようです。。)
Banteay Ta Kom

について述べたいと思います。
これらの名前で呼ばれていますが、独立した寺院で、創建年代もかなり違います。多分。

この2つの寺院は昨日の写真でも見えにくいながらお分かりのとおり、東西に200mほど離れて並んでおります。二つの寺院をつなぐ道があったと考えられますが、それについては週末までに述べられると思います。

ちなみにAymonierの時代、この2つの寺院の並ぶ軸上に家を決して建ててはならない、という地元の人たちの言い伝えがあったとのことです。

2つの寺院を古の霊たちが往来するので家を建てたら、死んでしまうといわれてたとか。
今も森などで家はなさそうでした。

歴史の話も面白いけどこういう伝説もちょっと面白いものです。
ちなみにこのときは子どもしかいなかったので確認できませんでしたが。。。
また行って見ようかと。

ではのーがきが長くなりましたので参りましょう。

おっとTa Ko:mの意味は せむしのおじいさん 
せむしの姿をした男神の彫像はけっこうあり、
バイヨンやニャック・ポアン サンボールプレイクックのレンガの壁のところに彫られていたり、
コーケーの石像がプノンペンに収蔵されていて(記憶にない、未公開?)(参考文献5)
 V.Rovertaさんは富の神Kuberaではないかと書いてますがなぞです。(参考文献4)

もしかしたら地元の伝承と融合したか、あるいは別の昔話か何かがあったかして、
こういう名前の遺跡となっているのかもしれません。

ちなみにこの像

肝腎のこの寺院では見つけることも出来ませんでした。
あ。
もしかして2つの寺院を行き来する霊が せむしのおじいさん姿とか?

さっさとしますごめんなさいでした。

イメージ 1


東からです。ああ、またラテライト寺院ですね。
我ながら行った先から忘れているのはすごい老化だと思うorz

十字型の楼門とラテライトの周壁 一変が30mほどのこじんまりした
まさに僧房といわれるようなつくりです。イメージ 2
Aymonierの本も公開されているのでサイトから頂きましたがこんな感じです。
このplanには入ってませんがこの寺院の斜め上には正方形の小さな池が付属しています。


さて最初の楼門
イメージ 3

をぐるぐる回ってみていたら

イメージ 4


Kか7かの1文字だけが彫られてました。これは石材の記号で碑文ではなさそうです。

しかしこの寺院からは2つの碑文(K.244とK,245)が出土しています。

残念ながら残ってませんでしたが。
地元民の運転手さんによると誰かが持っていったとのことです。
特に、K.244は非常に重要な碑文と思われますので、残念です。

とりあえず先に行きましょう。

南側のラテライトの経蔵です。
イメージ 5


ここの左側の石扉にも碑文K.245があったはずですが、影も形もありませんでした。。。
イメージ 6


西暦962年にここらにまつわる高官が父親をしのんでシヴァ神やナーラヤーナ、つまりヴィシュヌ神、リンガなど立てて祀った碑文のようした。

中央祠堂に目を向ける、前に落ちている残欠など見てみましょう。

イメージ 7


リンテルも大体10世紀中葉でおkでしょう。

追記 これは11世紀でしょう。花綱のたわみが見られるのは
バンテアイスレイを別とすれば11世紀以降では?
てかこれ、後世隣から持ってきた可能性があるかも。。。バプーオン様式に見えてきた。

いや
イメージ 8

ちょっと古いかもしれません。

ちなみにCISARKのサイトで花びらのような腰周りのサンポットのアプサラを見たのですが
見逃してしまいました。。。

てか、なかった?

追記 この寺院にかつて存在したリンテルなどの装飾については、Aymonierが詳細に記しています。

まず、影も形もない東面前室
「美しくオリジナルの神像が見られ、髪を束ね、口から花束を上向きに吐き出している2頭の馬の上に立っている。他の彫像は馬の脚をつかんでいる」
この、馬、がこの寺院ではちょっと意味があり、経蔵の碑文K.245の中にも 孫娘から、もしくは、に馬をもらったかあげた、というような記述があります。関係があると考えてよいでしょう。

馬は北の偽扉の破風にも見られ
「3つの鐘舌をもつ大きな時計?の下に一頭の馬があり、その下には4人の礼拝者が見られる。」
礼拝者の残欠は見られますが、馬は崩壊して確認できません。

いずれにせよ、なんとなくですが碑文と装飾とで、ともに馬が触れてある以上、これらのものは同時代ではなかったかと考えることができると思います。

西面の破風では
「6人の祈る姿が上下2人と4人でみな重厚な姿をしていて、非常に装飾的な飾りが彼らの耳の背後に
彫り込まれている。」
とあり、リンテルについては触れてません。
写真差し替えてここの部分の残欠の写真を上げておきます。
イメージ 10


「南の偽扉のエンタブラチュア(石柱の上の部分?→梁でいいみたい:これも偽柱 )は未完成である。」
とのことです。まったくそのとおりです。

リンテルについては全く触れてませんが地面に落ちている小彫像について、神像というよりはリンガや
左右同じようなものを持って腹の前でくっつけている、王の像ではないかと書いてます。がこれはどうでしょう?これら小彫像も見出すことはできませんでした。

追記終わり

第一楼門の装飾のNagaをみて、今日は終わりにしたいと思います。

追記 最初中央祠堂などと書いてました。またもや誤爆失礼<(__)>。

イメージ 9


はい寄り過ぎた。

明日は中央祠堂に残された手がかりを元に
消えてしまった碑文K.244とともに、この寺院のなぞに迫ります。


参考文献は19日にまとめて明示いたします。