カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Kdei Ta Kom その2

本日は昨日に引き続き
Kdei Ta Komについて、もう少し掘り下げていきましょう。

すいません書いてる途中で寝てしまいましたのでやっと公開です。

本日は昨日に引き続き
Kdei Ta Komについて、もう少し掘り下げていきましょう。
ちらっと見せて中途半端で終わった中央祠堂をあちこちから眺めてみましょう。

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南東面から主祠堂。 さりげに牛もカメラ目線である。
こちら側は東、南面のみ残って側壁が崩落してしまっています。


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東側正面です。

・・・
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写真見直したら、石扉はintactのような。。。

石の壁に碑文残ってるかもしれませんね。蟻塚の土塁に埋もれているだけで。
ちょっと再調査してみたいところです。

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北側から主祠堂前部を。それと牛。

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北西面から主祠堂を。それと牛。

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西面 牛はもう、よい。

こんな感じです。祠堂そのものはまあまあ残ってますが、上部は壊れ、
前室のラテライトの崩落も多かったようです。

と、さりげに西面のリンテルなど眺めてみると

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なんと!
これは
Kompong Preah様式です。Kulen様式にも近く見えますが。
つまり遅くとも8世紀後半くらいのものです。

しかし、楼門や主祠堂に乗っているNagaや他の側面についていたと思われる
リンテルは、せいぜい10世紀中葉くらいではなかったか?!

リンテルのみを再利用して、本体を再建する例は結構ありますので
ここもそうだと考えた方がよいでしょう。

しかし、逆にこの地に
こういうプレアンコールの様式をもつリンテルがあったということは、
そのころここに寺院があったと考えられます。よそから運び込んだ可能性はなきにしもあらずとしても。

と、まあ推測して書いてるようですが、なんのことはありません。
この主祠堂から出ている碑文K.244のおかげです。

この、たった2行のみのサンスクリット碑文の内容を見てみましょう。
サンスクリットはさっぱりなので怪しいフランス語頼みですが。。。

「名高いLokes'vara(観世音菩薩)が勝利を収めた。その名もJagadis'vara,まさに
シャカ暦 山(7)と月(1)と美点?(3)によって特徴付けられる年に建立された。」

観音様が何に勝利したのか分からないが、まさか仏像コンテストなどではあるまいよ。

むしろ、

この地には 西暦でいうと791年には
この地域の勢力が、Jagadis'varaと呼ばれた観世音菩薩を信仰していて、
なんらかの戦闘があって勝利したために、この寺院を建てた。

と考えたほうが自然な気がします。
観世音菩薩の御名がjagadi=神々の s'vara=支配者
とでも訳せるのでは?と私見では思いますが、
となるとこの地を制圧したのはだれでしょうか?

残念ながら名前はわかりません。が、この年のころには、
たぶんメコン川ぞいにアンコール王朝最初の王
Jayavarman2世王が勢力を伸ばしていったのではないかと考えられますが、
彼の力がこのアンコールの北西のこの地に及ぶには、早すぎるかと思われます。

もし彼の碑文だとすれば、彼が仏教信仰していたという可能性が出てきて面白いのですが
(輪転聖王ですしカンボジアの皆さん的には大喜びでしょうが^^;)
とりあえずここら辺はわかりませんので、スルーしつつ。

建てられた寺院について戻りますが、
その寺院は今残る寺院ではなく、

多分、昨日少しだけ触れた碑文K.245にあるシャカ暦884年(西暦962年)に
シヴァ神ヴィシュヌ神とも祀る寺院として再建されたもののようで、

そのとき、仏教寺院として
機能していたのかどうかはナゾです。

昨日斜め読みしていただけではかなり間違っていると思われますが、
経蔵にあった、2番目の碑文K.245には観音様の、かの字もでてきてないようです。
つまり、このころには仏教寺院ではなかったのかもしれません。

ちなみにこの碑文、
シャカ暦884年の記載(西暦962年)がありますが、その後に登場する、Jayavarman5世王、Suryavarman1世王の名前も見られますので、精読が必要ですね。。

ともかく、
10世紀中葉から11世紀初頭にかけてはヒンドゥ教の寺院としてあったと考えられますが、

それでは、
あの再利用されたと思しきKompong Preah 様式のリンテルはともかく、
東門正面の石扉?にあった仏教の碑文はなぜ、そのまま再利用されたのでしょうか?

歴史的に分かっている限り、
少なくともシャカ歴884年=西暦962年の時点では、ですが、Rajendravarman王が強力な支配体制を敷いていたと思われます。
そして彼のもとにはシヴァ教、ヴィシュヌ教、仏教の聖職者がそれぞれ高位にあったことも知られてます。

まあ大体において、いわゆるアンコール王朝期ではこうやって各宗教とも、あるいはイスラム系も含めて
共存していたようです。といっても偉い人たちとその配下のみで一般の民たちが何を信奉していたのかは、謎ですが。

もしくは、
K.245の碑文がクメール語のみで書かれたので、書いた人たちの中にサンスクリットが読める人がいなかったので放置した、ということも考えられないことはないですが、
ヒンドゥ教の碑文である以上、あり得ないかと思われます。

35行の長い碑文なのでいずれ暇でやる気が起きた時にでも、読んでみたいと思います。
それと最近の知見がわかればまたこっそり訂正しつつ。。。

なかなか写真や原文のない碑文は勉強にならず、やる気が起きないものですが。

ちなみにこの寺院、一説には12,3世紀のJayavarman7世王の施療院という説もあります。
これはないと、私的には見ています。

かの王さまこそ観世音菩薩と自らを同一視したことで有名ではありますが、それにしては
彼の時代のもの、と思える美術様式が、遺跡の周りの残欠には見当たらないような気がします。
(リンテルの残欠については昨日の記事をかなり追補いたしたいと思います)

それと扉の石の組み方も古いタイプのようです。東側の正面もそうでしたが、
今までスルーしてきました楼門の十字の中心のあたりを。

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こんな感じです。
やはり10世紀中葉あたりにできたのではなかろうかと思うのですが。

意味もなく楼門に生える木なども。
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なんかもっといい写真はないのかというつぶやきも聞こえますが。

おまけ。


昨日の文章も改めましたが、
Ta Komの名の由来となったと思われる せむしの神様 
の彫像や彫り物について、自分の撮った写真からとりあえずサンボー・プレイ・クックのを。

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ちょっと分かりにくいですが写真からみて右がわに跪いているのがそうだそうです。
サルにしか見えませんが。
ラーマにひざまずくさるのうちのどれか、という気がするんですが。

ピミエンナカ(ピミアナカス 王宮)のは写真撮ってませんでした。
てかどこに?

参考文献
1.Etienne Aymonier ”Le Cambodge.Ⅱ”
English translated by Walter E.J.Tips "Khmer heritage in the Old Siamese Provinces of Cambodia"White Lotus,Bangkok1999

2.G.Coedes”INSCRIPTIONS DU CAMBODGE Ⅲ”EFEO,Paris、1951
3.G.セデス 山本 智教訳 ”東南アジア文化史”大蔵出版、1989、2002
4.Vittorio Roveta"Image of the Gods" River Books,Bangkok,2006
5.Emma C. Bunker , Douglas Latchford"Adoration and Glory: The Golden Age of Khmer Art"
 Art Media Resources Ltd 、2003