カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

K.245の訳出文と考察。TEXT ONLY!ver1.0


今日はごく私的な碑文の訳出と考察ですので、
スルーするのがよろしいかと。

写真もない不親切バージョンです。

・・・


SiemReap州 Angkor Chum地区 Kol集落の遺跡 Kdei Ta Kom南側経蔵西エントランス左壁(現在行方不明)K.245 35行 クメール語のみ

訳文(当然誤訳を大いにはらんでいる可能性あり)

1-4行
シャカ暦???年 Maghaの月(何月?)、月の満ちる第十日目の月曜日、王からの要請が下った。それは、異議を排して(原告もしくは請求者である)子供達に(Siddhi 意味が違うが悉地?)専有権を与えるという、Vrah pada kamraten~ kamtvan Cri. Suryavarmadevaの命令の形で下され、満足のいくものであった。

注:最初の一文をみると、どうやら、自分の子供たちが例によって土地問題の裁判で勝利したことを記念してこの碑文を立てたといいたいようだ。このときの王はSuryavarman1世王のようで11世紀初頭であろう。それにしてもなんか長い称号であるが。。。
つまり、この寺院の建立と、この碑文に記されている年号との時間的相関があんまり関係ないような気がしてきた。

5-9行
シャカ暦884年 Vais’akhaの月(5月)、満ちる月の第2日目に、Mratan Cri Sarvadhikaraは高位を辞することを宣言した。これとは別の時に、Mratanの孫娘のMe Sokが 私を探して、将来一族の長となるよう私に迫り、そして一頭の馬と鞍と、vat(奉納物?)を私に与えた。

注:Me Sokさん、なかなか情熱的な娘さんである。西暦でいうと962年 の陰暦5月にMratan Cri Sarvadhikaraが辞職か引退したらしいが、それと同時にかどうか?その孫娘Me Sokさんが碑文の筆者(一人称というのもなかなか)に政略結婚のためかもしれぬが、近づいてきたようだ。しかし、Me Sokさん自らがうちの跡取りになってくれと、動いている印象があり、名前の通りSok(元気な)お嬢さんのイメージである。
この子は相続権をもった末娘であろうか。

10-15行
Vais’akhaの月、満ちる月の第10日目、そのMratanは私に彼の孫娘を下さり・・・4本の傘を私の父であるCri Gunapanditaに下さり、その女性Me Sokはそれを歓迎した。彼女はその名をMe Mani…と変え、その名となることは私と彼女とを結びつけ、私を奉仕人の上に立つように命じられる。私の前でaNak Khlon(これが奉仕人=官僚ではないか?)が正しき行いをなすように。(Coedes先生はaNak Khlonをこの人と女性との子供という説を展開している)。

注:それから8日後には速攻で結婚したようだ。まあこんなものだろう。4本の傘(?)がついているがこれは位階によって傘の本数が決まっていることと関係しているであろう。アンコールワットの第一回廊の王の行進で傘の数を数えてみるとよいが、4本だとすれば、イマイチの感あり。

追記 いやとんでもない、4本傘は今年出たダジャンスの本によると、かなり高位らしい。

aNak Khlonが高位の者の子供を指す例があるらしいが、文脈から王への奉仕人である者たちの頭に立つと判断したが。。。当然MratanのほうがKhlonより高位であろう。どちらにしてもこの一文は齟齬を来さないのでとりあえず棚上げしておこう。

それにしても、さりげに注目したいのは、Me Sokさんが結婚してMe Mani~さんに名前が変わったことである。これは姓が変わったとみるべきなのかどうなのか。原文もMe Sok Me Mani-であり、名のほうが変わったようである。姓名という概念があったのかどうかわからないが。Meは先代の(父親の)名前か?

それにしてもなんとなく碑文でのろけてるよなこの人。


16-28行
(VKAなしsdac)Paramaviraloka(Jayavarman5世王)の支配によって、私はシヴァリンガとなすべき石を探し、私はブラウマ神を溶かし(鋳造した?)、ガルーダの上に乗ったナーラヤーナ神を溶かし、牛の上に乗るガウリパティシュヴァラ神(すなわちナンディンに乗るシヴァとガウリー=パールヴァティ夫婦像であろう)を溶かした。

私はこれらを製造したKA聖師を招き入魂の儀式を行い、その料金として象と馬とを与えた。

これらの神々をすべて私の3人の子供たちに託するものである。
ブラウマ神とガウリパティシュヴァラ神については、私は私の子供であるTan~―――とJairaga(地名のようだ)のVap Pavitraに与えた。VKAナーラヤーナ神については Vap AGatに与えた(不自然だこの人も彼の子供であろう)。


注:ParamaviralokaはJayavarman5世王の諡名であり、この碑文が書かれた当時は当然Suryavarman1世王の治世で逝去している。
それにしてもセデス先生 神様をfonduしたと書いているので、悩みまくった。
チーズフォンデュのfonduですよね?溶かすくらいしか思いつかない。

実際古い神様や異教の神様を溶かして再鋳造することはありうるので、
最初は溶かしたのかと思ったがどうも後の文章を見るに溶かしたというより鋳造したととったほうがいいので、そうさせてもらいました。たぶん青銅か金銅の神様であろうが祠堂がラテライト中心であることをみると、予算的にはブロンズであろう。

しかし、この一文によって、
ヒンドゥの3神を作って入魂の儀式を行ったときに、この碑文が書かれたと考えてよいであろう。
あとは3人の子供たちにこれらを託した、とある。

子どもたちはKhlonでもなく
Tan~の称号をもつ・・・(名前のところが消えてる?)にブラウマ神
JairagaのVap の官名をもつPavitra (Jairagaというのは地名で、Prasat Ta Siou(まあまあ近い?Kralanh、Stoeng Sreng)の碑文でも名前が見られるのでそう遠くはないかもしれない)、彼に
聖牛に乗ったシヴァ神
あと、セデス先生は上の二人のみを子どもとした訳のようであるが、文脈からやはり
Vap AGatさんも子供であろう―彼にヴィシュヌオンガルダの神像を与えたようである。

29-30行
私はこれらの神々と、生活の財産を私の3人の子供に与える要請を訴えた。


31-35行
これら3人の子供たちが持つ三神を破壊する方法をもって妨げとなるものは 33の地獄に落ち、ほかの世界に転生してもこの世界の王よりあらゆる種類の劫罰を受け続けるだろう。
注:
終わり

以上からわかることをまとめると、
この碑文は11世紀初頭、1010年か11年、Suryavarman1世王が王位に上って、たぶんほどなく書かれた。
でないとこの碑文書いた人が結婚したのって西暦962年11月なので十代で結婚したとしても、
1010年でそれから48年たってるわけで、60過ぎているであろう。

3人のこどもたちはそれなりの官位についてはいたようだが、あまり高位ではなかったようだ。そして
土地の所有権問題でもめていた。が、登極まもないSuryavarman1世王の名のもとに、まあ勝訴を勝ち取ってその記念に、Jayavarman5世王の治世に鋳造していたヒンドゥ3神をそれぞれに3人の子供たちにわけ与えた。

たぶん子供たちを妨げるものを呪う文言が最後に連なっているが、ひょっとしたらこの筆者は子供たちに仲たがいしないようにとくぎを刺していたのかもしれない。

どちらにせよ、晩年を迎えたこの碑文の筆者が、家族を思う心を強く感じさせる碑文であるなあという感想である。
いつの世も人の心は変わらないというか、なんとなく、訳してみると、気持ちが和んでしまった。

・・・なごんでばかりもいられない。

最後に
この寺院はいつ創建されたのか。

やはりこの碑文によって10世紀末から11世紀初頭とするのが妥当な気がしてきた。
よく考えたら
それ以前なら多分レンガで造っていただろう。ラテライトでできていることをもう少し
ちゃんと考えるべきだった。

少なくともヒンドゥ3神を鋳造して開眼したときか、この碑文を書いたときであろう。
ヒンドゥ3神を祀るために建てたのなら、このPLANは考えづらいがどうであろう。

やはり碑文を書いたとき、つまり1011年以降の数年間のうち、と考えるべきか。

そういえばSuryavarman1世王はラテライトの寺院が結構あるかもしれない。
Neak Buosのラテライトのギャラリーも下手すれば彼かもしれない。
昨秋みた遺跡はSuryavarman1世王の関係したものが多かったが、ラテライトで似たような寺院が
あったような。。。コンポントム州やコンポンチャム州。あとPhnom Cisor。
別に王の命で建てたわけではないのでそのままあてはめることもできないがそのスタイルは踏襲しようとしたかもしれない。

ちなみにこの王様は独自の美術様式をもっているのではないか、と、私は考えているのだがこれはまたいずれじっくり検証してみたいと思う。

ともあれ、
この寺院にしてもさまざまな様式のリンテルが見られるので、それ以前より現存のとは異なる寺院があって最終的に創建したときにそれらは再利用されたと考えてよいであろう。

しかし、それでも未完成の部分が見られることから、最終的にこの寺院の建立は頓挫してしまった。

イメージ 1

イメージ 2


何かがあったのだろう。

子どもたちを案じた碑文の筆者の思いは、叶わなかったのであろうか・・・。

子どもたちの運命はどうなったのであろうか?

これらの像はいまいずこにかある?

なんか切なくも儚いものがある。それもまた歴史。

参考文献はいつものごとく
1.Etienne Aymonier ”Le Cambodge.Ⅱ”
English translated by Walter E.J.Tips "Khmer heritage in the Old Siamese Provinces of Cambodia"White Lotus,Bangkok,1999
2.G.Coedes”INSCRIPTIONS DU CAMBODGE Ⅲ”EFEO,Paris、1951