カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Kdei Ta Kom Thomの碑文K.246-248についてTEXT ONLY

日曜ですので碑文解読にまいります。

興味のない人はスルーしてください。
いつものごとく考察は暫定的な仮説です。

K.246はすでに2,007年9月9日にみてますが、
写真がないのもさびしいので再掲しておきましょう。

イメージ 1

クメール語
vi 986s'aka mvayです。
シャカ暦 986年(西暦1064年)1・・・

この先にひとことのみ、やや大きめの字で
イメージ 2

Ket ?
月が満ちる。。。と読みましたがこれ、セデス先生は読んでないので自信はいまいちです。

追記 写真見直していたらPreah Pithu Tののところに同じ文字記した石材を見つけました。
イメージ 4

どうやら、当時の建築用の、なにかの符牒のようです。他にないか、なんのことか、分かればまた
一項立てて述べてみたいと思います(2008/3/31)

これのみです。

では次行ってみましょう。
どこにあるのかわかりませんが。。。

K.247(クメール語
982s'aca...........   adi
-dityavara nu khlo(n~).....
man dun~ ta hari.....
ta kroy ayat sam.top....

シャカ暦982年(西暦1060年)・・・・
・・・アディティヤヴァラとKhlon・・・
あとはわかりません。

しかし1,2行目のカタカナのところはこの当時の王ウダヤアディティヤヴァルマン2世王(わかりやすく表記)の
名の一部かもしれません。あるいはその一族の名か、何らかの関係はあるでしょう。

最後の東楼門にあったというK.248は19行のまとまった碑文できれいな字体で
書かれていたそうですが、先日の遺跡Kdei Ta Komのそれとは字体は一致しないそうです。
しかし内容的に、セデス先生は関係があるのではないかとみているようです。

これもどこにあるのか???
では、モードを変えて碑文の訳出を試みてみます。

1-4
1bol の重い銀・・・lin.・・・10肘(長さの単位かと、十尺?)の衣類 5yau(着?) 、膝(これも長さか)の衣類1 yau、10thlvon.の稲籾、鋤が1、聖牛(というが農耕用?)2頭、 これらは私がこの
団体の生活のためにあがなった品々である。
5-7
私が(交換で)与えた土地の境界は、東は 周壁の東側の車の通れる道まで、南は荷馬車のわだち跡の
ところまで、西はAbhinavagramaの土地まで、北は車道まで。この土地が私が与えた土地である。

8-12
私の先祖がKala Raja Vrah Pada Parames'vara王(これは古い。なんとJayavarman2世王の諡名である)の御代に王より褒賞として賜った土地(王の支持を得た、って感じが直訳)、その一部を私はKhlon Thpal Cr.s(すり減ったすりこぎ?)とそKhlon Vala Thpal Cr.sの親族のメンバーに与えようとした(何かと代償に?)。
これらの土地は、私が売って、得た代償をすべて私の孫娘であるTen~Tvanと、私の息子であるLon~Svateとに与えるためのものである。

13-18
この土地の、目印に従っての境界制定の証人は以下のとおりである。
東はKhlon~ Travan' Amvil(タマリンドの池の意味)
南東はKhlon~ Kantal Sruk(町の中心の意味)とその息子。
南はKhlon~・・・
南西はKhlon~ Kanyan'(Abhinavagramaの町の、と続く)
西はVrah Stuk Pinda(Kayalの町の)
北はKhlon~---Srukと、その息子
北東はKhlon~でこの人はTa Mula(原本の脚注;王の審問のアシスタントをする4人の大臣の筆頭:アンコールワットの碑文より)と・・・
19
米1jeの奉納、新年の神様へ。

以上

考察

セデス先生はこの碑文は先日のKdei Ta Komの碑文を書いた人と同じではないかという仮説を立てている。確かに内容的には一致しないこともないがどうだろう。

たぶんバラバラのこの3つの碑文はほぼ同時代とみてよいであろうとも、あるが、となると
先日の碑文を残した人は1060年に生きてたとするにはちょっと厳しいのではないか。


先日の碑文K.245では
筆者は三人の息子にヒンドゥ3神とともに財産分与したこと

この碑文K.248では
土地を一部売って、その代金というか(この時代貨幣経済ではないので物々交換した)動産を息子と孫娘に与えたこと

ちょっと違うような気もする。
二つの碑文で共通する孫娘、というのも、一般的に末娘に相続権があるからと思われる。
さらに、
西暦962年に結婚した人が書くには無理があるのではないか。
前者はSuryavarman1世王(AD1011-1050)の治世
後者はUdayadityavarman2世王(1050-1066)の治世の間のことであるし。

しかし、碑文によると、この筆者は古く9世紀初頭、アンコール王朝の初代Jayavarman2世王の御代より代々このKdei Ta Kom Thomのあたりを土地を支配してきた一族のようである。

じゃあ、ここから200mほどしか離れていないあっちの遺跡も、彼も一党の支配地だと考えてよいのだろうか?

位置的には十分ありえるが、ちょっと考えてみると

そういえば、あっちの遺跡Kdei Ta Kom touc(小)には8世紀末の碑文と遺跡の痕跡があった。Jayavarman2世王の時代か、その直前である。

しかも西暦791年の碑文K.244で観世音菩薩が勝利したなどと書いていた。どうやらその時勝利したのは土地の支配権を勝ち取ったということかもしれない。

その碑文を中央祠堂の扉に残していたということは、後の碑文K.245を残した人が
K.244碑文を残した一族の末裔と考えてもよいであろう。あるいはその正統性をうたっていた。


ほかに証拠らしきものはないか?

まずこの近辺の地図というか航空写真を再掲すると、

イメージ 3


取り上げた二つのTa Kom(大、小と区別する)遺跡の上にほぼ正方形の城郭都市の周壁の跡と思しきものが見えるであろう。Banteay Ta Kam=Kdei Ta Kom Thom(大) Kdei Ta Kam=(小)である。

ここで
碑文5-7行目を見ていただいたらお分かりかと思うが

>東は 周壁の東側の車の通れる道まで
という記述がある。
この周壁と、王道のこととを当てはめたら位置関係的にぴったりくる。

王道はタイのPhimai遺跡まで通じているわけで、Phimaiは11世紀後半には完成していたわけだから
それに向かう王道が同時代であるこのころ、すでにあったとしてもおかしくない。

てことはもともと持っていた土地は、少なくとも王道のあたりまでではあったのでは?
と考えられる。
てことは、当然Kdei Ta Kom(小)も本来の領地に入っていると考えてよいかもしれない。

まあこれだけ考えたら二つの遺跡でそれぞれ碑文を残した人々は一族だったと考えても不都合は
ないであろう。
ただしそれは同じ人物ではなかっただろう。

となると、8世紀末にこの土地の支配権を王の同意を得て獲得した、ということがなりたち、これは即ち
メコン川沿いに遠征してきたJayavarman2世王は西暦791年にはすでにアンコールを超えて西のこの地まで支配し終わっていたということになる。つまり有名なアンコール王朝の始まり=西暦802年説はあやしくなってくるひとつの傍証になる。
がこれは今は流しておこう。

しかし、先にあの小さいほうが立っていて、
後にこの大寺院を建てた、となると、
それなりに11世紀中葉、この一族は力を持っていた、と考えてよいのかもしれない。

他人の寺院には碑文を残さないだろうし。しかし、それにしてもかなりの規模がある。
アンコール王朝初期か、それ以前からの豪族として、名門であったのだろう。

後日写真などで例証できると思うが、
この寺院も実は未完成の部分があることや、
いったいどういう目的でこの寺院がたてられたのか、は碑文からは読み取れないこと、
この遺跡を建てる主体は王の命令によるものか彼らの自発的なものか、など
未解決のなぞはいくつもあるが、

とりあえずまとめると、

もしかしたらかなり昔、プレアンコール期からこの地を支配していた一族が
ジャヤヴァルマン2世王の支配下に入り、認めてもらってこの一帯を引き続き支配していたが
11世紀半ばにこの大寺院を建てつつ
土地の一部を、子孫に相続させるために売り、改めて土地の境界線を近隣の高官(というか貴族)
を証人に立てて決めなおした。

ということになるかと思われる。

しかしこれはつぎはぎである。さらに周辺の寺院も調べてみると何かわかるかもしれない。

もっと精読すればもっと面白いことに気づくかもしれない。
が、まあ今の私がいくら妄想を働かせてもこの程度である。

また思いつくままに訂正していこうとおもふ。。。

参考
Coedes.G"INSCRIPTIONS DU CAMBODGE Ⅲ,P20,P89-96",EFEO,Paris,1951