Kdei Ta Kom Thom その6
大体のところは紹介し終わりましたが、本日もKdei Ta Kom Thom
です。
です。
その前にお詫びを。
昨日南経蔵として載せました写真は北経蔵の別角度からの写真であることが判明しました。
昨日南経蔵として載せました写真は北経蔵の別角度からの写真であることが判明しました。
お詫びして、本日は真・北経蔵を最初に。。
追記 てヲイ 南経蔵のまちがいです。では。
追記 てヲイ 南経蔵のまちがいです。では。
崩壊がひどいですね。西からみてます。
多分北面を撮ってるかと。。。
どうしてこんなに記憶力が悪いのか???
では、気を取り直して
主祠堂の跡をもう一度みてみましょう。
主祠堂の跡をもう一度みてみましょう。
西楼門を撮ってるはずです、確か。
なんだか基盤というか石段が深いですね。
本当に祠堂があったのかどうか?とちょっと疑問も残りますが、
考えても分からないので、流しつつ、
本当に祠堂があったのかどうか?とちょっと疑問も残りますが、
考えても分からないので、流しつつ、
中央回廊の西楼門を見てみましょう。
北から見てます。
北から見てます。
もっと大きく写真を撮ればよかったですね。。
中央の回廊の西門からは、西の外郭の楼門へと道が続いています。
ってこれでは分からないですね。
いつもながらコレ、という写真が撮れてないのが情けない。
どこかの回廊の内部にあったと思しき、台座です。
分かりにくいですがレンガが散乱しています。
レンガの建造物があったのか、一部使用されたのか?
レンガの建造物があったのか、一部使用されたのか?
とりあえず分からないことだらけですが、遺跡から出ます。
外郭の東門付近にあった石の、文字。
コレは碑文ではなさそうです。
上は数字も書いてあります。981?
下は???P vala?自信がないです。
とりあえず、
遺跡と同時代であると考えてよい字体ではあります。
さて、クメール美術ファンの皆さん?お待たせしました。
遺跡周囲にはこんなものが
遺跡周囲にはこんなものが
掻き落としの櫛目文を肩に施されたクメール黒釉の壷など、の陶片です。
やはり黒釉が現れるのは11世紀と考えられまして、これもこの遺跡と同時代とみなしてますが
いかがでしょう?
やはり黒釉が現れるのは11世紀と考えられまして、これもこの遺跡と同時代とみなしてますが
いかがでしょう?
最後に
なんだかおっかなびっくりついて来てた子供たち。肖像権が気になるので小さい写真で。。
なんだかおっかなびっくりついて来てた子供たち。肖像権が気になるので小さい写真で。。
牛を追いながら変な異人を観察してました。
表情が硬いのも無理はありません。
1年前は、外人が来たら逃げて隠れてたそうです。
以前行かれた皆様のときはどうだったでしょう?
1年前は、外人が来たら逃げて隠れてたそうです。
以前行かれた皆様のときはどうだったでしょう?
やはりあまり人はこないそうです。
その静けさが、なんともいえずよいのはよいのですが、
その静けさが、なんともいえずよいのはよいのですが、
かなわぬこととはいえ、いずれ整備されてこの一帯が観光地化されるといいなとか思います。
かといってこの子らが絵葉書やクロマーなどもって「オニーサンヤスイネ1$」といって
押しかけて来るのも想像したくないですが。
いやそれはそれでいいかも。
押しかけて来るのも想像したくないですが。
いやそれはそれでいいかも。
明日は今までのまとめを隣の遺跡も含めてやってみたいと思います。