カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

まとめKdei Ta Kom ThomとKdei Ta Kom(6回目)

えー。
だらだらとやってきましたこの、Kdei Ta Kom Thomですが
本日でとりあえずおしまいとします。
が!
周囲には見そびれた橋や、遺跡がまだちょぼちょぼとありますので、
ひょっとしたら今秋の旅でまた探訪するかもしれません。

まだまだなぞが多く、検討するべき資料は少ないまま、あさっての方向に妄想を炸裂させてますが、

とりあえず、まとめに入りたいと思います。

の前に写真で残り部分など。
このKdei Ta Kom Thomの東門から先に、両側にリンガを立てた参道があったようです。
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道端の草むらの中をみるとこんな風にいくつか残ってます。
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参道の敷石であったろう、ラテライトも一部見えます。
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この先は農道になってました。歩いて確かめればよいものを。。。
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最初に書いた伝説のこともちょっと脳裏をよぎるのもありますが、写真で天候が徐々に変化している様子が見て取れるかもしれません。ハイ雨季なので雨がきそうです。あせります。
Kdei Ta Kom(小)との位置関係を確かめず引き返しました。。

はい、ではあとはまとめなど参ります。
写真はあまりありませんので、適当に流してください。

まず
Kdei Ta Kom(前シリーズの小さいほう)
planは
http://blogs.yahoo.co.jp/vyadhapuresvara/archive/2008/3/18
をご参照(Neak Buosと扱いが違いすぎる)

歴史

多分プレアンコール期末期にはここに寺院あり。コンポン・プレア様式のリンテル。
AD791年 戦勝か?の記念に観世音菩薩を開眼、建立、碑文。
・・・
AD962年 後に碑文を残した高官(不詳 とりあえずX氏)Mratan Cri Sarvadhikaraの孫娘のMe Sokと結婚

この間にかいつの間にか大乗仏教寺院がヒンドゥ教の寺院に。。。

10世紀末 Jayavarman5世王の命で、X氏がシヴァリンガを建て、ヒンドゥ三神を鋳造。
1011年以降の何年か X氏 Suryavarman1世王の勧告で土地問題解決し、三人の息子にヒンドゥ三神と
自分の財産を分与 そして碑文を残した。
多分、このときまでに寺院の再建はなされ、現存するラテライト寺院となった。
が、そのまま寺院未完成で放置される。。。

Kdei Ta Kom Thom(大)
planは
http://blogs.yahoo.co.jp/vyadhapuresvara/archive/2008/3/21
ご参照(めんどうになったわけではないですよ?)
の歴史

9世紀前後 後に碑文を残した一族の先祖がJayavarman2世王の承認を得て、この地を支配。

AD1060年 Udayadityavarman2世王を髣髴とさせる名の残る碑文。未完?
AD1064年 年号のみの碑文(未完)
11世紀半ば(多分1050年から1060年代)
この土地の支配者、息子と孫娘に財産分与するため、領地の一部を売り、周囲の有力者を証人として境界を再設定。
この時代に、寺院自体が建立された。が細かいところは未完成のまま(特に外郭の楼門)
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写真は外周南楼門より。

13世紀半ば Jayavarman8世王が空中歩道を増設か?
・・・あとは???
19世紀末Aymonierが探訪したときは中央祀堂すでに崩壊。

とまあ、碑文と建物だけからみてみるとこの程度ですが、
では、この2つの寺院は関係があるのかないのか?

ということについては日曜日23日の碑文解読で妄想しましたので、興味があって暇な方は
どうぞ。
http://blogs.yahoo.co.jp/vyadhapuresvara/archive/2008/3/23

その要旨を大雑把に言いますと

Google Earthの写真見直すとこの寺院自体を囲む周壁というか土手があるようなので、なんとも難しいところですが、遺跡の上部にある城壁のような土手のような正方形が、当時の町ではなかったかと
妄想しております。

考古学的調査がなされたらいろいろわかるのでしょうが、とりあえずは、王道が脇を走っていますので
これをもとに碑文に述べられた領地の境界を検討してみると、これら二つの寺院が領地に含まれそうなので同じ支配者一族ではなかったろうかと、考えてみました。ちょっと安易ですがとりあえずの要旨です。


まあ、11世紀に入って、Kdei Ta Kom(小)から(大)にいたるまで
記録上のギャップが約50年あるので、50年もあれば歴史もかなり動きうるので、
正直難しいところです。
まあ、最初からピースの欠けたジグゾーパズル、足りないところは妄想で埋めましょう。

とにもかくにも、とりあえずこの寺院は機会があればぜひ、お勧めいたします。
アクセスはシェムリアプからでもアンコールトムを抜けて比較的コンディションのよい道を
Angkor Chumの主だった集落Char Chhukまで一時間ほど、なんとここの幹線突然アスファルトで舗装されてます。ほかの道も、今年の選挙のため、いずこも同じ、票稼ぎのため道路改装してました。
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そこから北にKol(Koul)集落へ向かい、地元名であるPrasat Kolを訪ねていけばたどり着くことでしょう。ほかにも王道や橋がありますので(Spean Chang er以外雨期はきびしいかも)行ってみるのも一興です。

追補
あつしさまよりご教示いただきましたので、
アンコール地域以外の、寺院に残る空中歩道 IN 大プリア・カーン(Prasat Bakan;Preah Karn nau Kompong Svay)

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ありがとうございました。

いやー、去年行ったのにさっぱり覚えてませんでした(ヲイ。
やはり重要な寺院には、この円柱と空中歩道を増築しまくったのかもしれません。
当然リアクション・シヴァイテとセットでしょう。。
彼Jayavarman8世王はなんでこんなことをしたのか?
徐々に浸透してくる上座部仏教を恐れていたのではないかとも、思ってます。がこれもまたいずれ。

ちなみに写真に写る団体は日本人ツアー客です。
なんか四駆のキャラバンがついてくるなと思ったら、彼らでした。

まあ、めったにツアーも出てないようですが、
行きたいけど一人では・・・って方はGWなど探すとあるようですよ。

大プリアカーンについては、いずれ触れられたらと思いますが、
まだちょっとしか行けてないのでお蔵入りです。。。

話が違う方向にいってしまいましたので、今日はこの辺で。。。

明日はちょっとAngkor Chumのお寺なぞのぞいてみます。
その後に、この地域で私的には一番のお気に入り、Prasat Preah Phnomへ
参りたいと思います。

参考文献
1.Etienne Aymonier ”Le Cambodge.Ⅱ”
English translated by Walter E.J.Tips "Khmer heritage in the Old Siamese Provinces of Cambodia" White Lotus,Bangkok1999

2.Coedes.G"INSCRIPTIONS DU CAMBODGE Ⅲ",EFEO,Paris,1951

3.石澤 良昭、日本放送協会「この人この世界 2007年2-3月 (2007) (NHK知るを楽しむ/月)」 、 日本放送出版協会 2007/1