Prasat Preah Phnom その5
本日は普通に参りたいと思います。
今日でこの、Prasat Preah Phnomはおしまいにしようと思います。
今日でこの、Prasat Preah Phnomはおしまいにしようと思います。
残りの、北側の前後の祀堂を紹介してまとめたいと思います。
後列北祀堂です。かなり崩壊してますが、壁がそそり立ってるのがなかなかによいです。
前列の北祀堂は
こんな感じでリンテルも
やはり剥落しています。
こんな感じでリンテルも
やはり剥落しています。
しかしここの寺院は祀堂内部に穴がなく、盗掘されなかったのか、それとも埋め戻されたのか
ちょっとふしぎな感じでした。
ちょっとふしぎな感じでした。
まとめると、この寺院は
碑文K.593
西暦930年
indravarman1世王の聖師であったS'ivasomaかその係累がこの寺院を建立して
シヴァと、ウマー、ガネーシャの三神像を開眼した。これらは20世紀まで残存した。
碑文K.593
西暦930年
indravarman1世王の聖師であったS'ivasomaかその係累がこの寺院を建立して
シヴァと、ウマー、ガネーシャの三神像を開眼した。これらは20世紀まで残存した。
しかしこの寺院もまた、未完成のままで放置されたようで
屋根の装飾の砂岩のfinialは未完成です。
屋根の装飾の砂岩のfinialは未完成です。
多分そのあと、10世紀に碑文K.594が、多分当時の王の命令で記されて、
北にあったという大貯水池もこの辺りで造成された?
この一帯は結構人口の集積があったのかもしれない。。。
この一帯は結構人口の集積があったのかもしれない。。。
と、まあこれくらいしか分かりません。
とりあえず本日はこのくらいで撤退いたしますが、残りはいつものように私的
後学のためのメモですので、すっとばしてかまいません。
とりあえず本日はこのくらいで撤退いたしますが、残りはいつものように私的
後学のためのメモですので、すっとばしてかまいません。
明日からどうするか、未定ですがもう少しこの先の遺跡でも。。。
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めくるめくアンコールの人物相関メモ
大体S'ivasomaはIndravarman1世王の聖師であるが、それだけでなく、
アンコール王朝初代Jayavarman2世王(790?-850?)のいとこの子に当たる。
Jayavarman2世王とIndravarman1世王(877-889)とは、父の姉の夫(伯父)と甥とにあたる。
S'ivasomaとIndravarman1世王とは血縁はないが、聖師を勤めたということは当然重用されていた。
(ただSdok Kak Thom碑文を読むと彼は9世紀末には死去したようだ。
となればなぜ死んで30年以上経って彼の名が碑文に出てきたか、あるいは同姓同名というオチもありうるが)
アンコール王朝初代Jayavarman2世王(790?-850?)のいとこの子に当たる。
Jayavarman2世王とIndravarman1世王(877-889)とは、父の姉の夫(伯父)と甥とにあたる。
S'ivasomaとIndravarman1世王とは血縁はないが、聖師を勤めたということは当然重用されていた。
(ただSdok Kak Thom碑文を読むと彼は9世紀末には死去したようだ。
となればなぜ死んで30年以上経って彼の名が碑文に出てきたか、あるいは同姓同名というオチもありうるが)
でJayavarman4世王(928?-942)はといえば、Indravarman1世王の次女?の娘婿で、その長男Yasovarman
1世王(889-900)の義理の弟となる。が、彼ら一族と直接の血縁はない。アンコール地域でなくコーケーに新都を築こうとしたのもそのためだろうが、元々コーケー地区が彼の出身地かもしれない。
1世王(889-900)の義理の弟となる。が、彼ら一族と直接の血縁はない。アンコール地域でなくコーケーに新都を築こうとしたのもそのためだろうが、元々コーケー地区が彼の出身地かもしれない。
Jayavarman4世王の息子Harshavarman2世王を拉致して王権を奪ってアンコールに都を戻したRajendravarman王(944-968)は彼らの姉の子供である。と同時にJayavarman2世王の一族の血も引いている、ことになっている。
と同時にここら辺よく分からないが、どちらかというとS'ivasomaの一族に近い血が流れている。
母親がよく分からないが両者の関係者。
母親がよく分からないが両者の関係者。
つまり
S'ivasomaとその係累は初期アンコール王朝の一族だったが、碑文の残る930年当時、婚姻こそすれアンコール王朝とは血族関係のなかったJayavarman4世王がコーケーにて王権を握っていた。
S'ivasomaとその係累は初期アンコール王朝の一族だったが、碑文の残る930年当時、婚姻こそすれアンコール王朝とは血族関係のなかったJayavarman4世王がコーケーにて王権を握っていた。
クーレン山を挟んで反対側にあるこの土地も、建物や美術様式から言って、コーケーの支配が及んでいた。そんな中で初期アンコール王朝の一族である(が死んで久しい)S'ivasomaの名を使って。彼の末裔か弟子筋かの高官がこのPreah Phnomに寺院を建てた。王命でもなく、ただこの地域の長である自分のみをたたえる文言を残して。
なんらかの意味があるのだろう。
碑文K.593では、王の名や命令の記述はなく、むしろ建立者を称え、祝福しているばかりである。美術様式はコーケーで従っているが。
なにかしっくりこない。でもこれ以上は分からない。
碑文K.593では、王の名や命令の記述はなく、むしろ建立者を称え、祝福しているばかりである。美術様式はコーケーで従っているが。
なにかしっくりこない。でもこれ以上は分からない。
ちなみにJayavarman6世王はといえば、まったく彼らとは別系統でマヒーダラプラ系(多分コラート辺りから)で、以降ずっと彼らの係累が王となる。が彼の神官はひょっとしたら初期アンコール王朝の係累かもしれないが、確証はなし。
どちらにせよ微妙な時代の碑文である。
メモ終
参考文献
Aymonierはデフォルト。Sdok Kak Thom碑文も載ってるし(訳あやしい)。
この碑文にまつわる訳などはいくつもあるのでいずれ読めたら、ってか遺跡に行ったらやってみたいです。やはりタイ行こうかな・・・。
この碑文にまつわる訳などはいくつもあるのでいずれ読めたら、ってか遺跡に行ったらやってみたいです。やはりタイ行こうかな・・・。
1.G.Coedes “Les etats hindouises d’indochine et indonesie” E.de Boccard,1948(完成版は1962