カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Sralauのひどいやつ。

えー。
この記事は昨日4月17日に、書きかけになってしまいました。中途半端ですが、やむをえず
そのまま公開いたします。


みんな巫k(ryさん好きなんだなーと、妙な実感しつつ、あまりこういう言葉を書かないで
ひっそりとやって行こうと思いつつ。。

だいぶネタもなくなったので、本日と明日とそれ以降で、
Prasat Sralauについて紹介したいと思います。
ここは、バンテアイスレイ様式の遺跡、として知られてまして、

以前もちらりと書いたかもしれないですが
1997年にニューヨークから東京、大阪に巡回した、
アンコール・ワットとクメール美術の千年展」の図録の表紙を飾っているのが
この遺跡のリンテルです。
そして、また別のリンテルは、東京国立博物館に戦時中、多分独占領後のフランスとの交換で
収蔵されています。
ちなみに日本軍がインドシナに駐屯してからフランスがドイツ軍に無条件降伏して、ドイツのかいらい政権になって、しばらく日本ではアンコールワットブームが到来したようです。
しかしフランス極東学院にとっては苦難の時代となったようでも、あります。

私的には第二次アンコールワットブームと呼んでます。第一次は森本右近太夫サンの時代です。

このころの話や、出版物などについての検証はいずれまた行いたいと思います。

前置きがいつものように長くなりましたが、
このPrasat Sralau、結構行くのに苦労したので(自業自得)
今日はそんな話など織り交ぜつつ
案内してまいりたいと思います。

イメージ 1


以前紹介した、Prasat CharからPrasat Sralauまで。
Google Earthよりです。
Prasat Charは集落の名前にもなっており、そこを東に進みますと、川が見えるかと思います。
バイクしか通れない橋にぶち当たり、行き詰ります。行き詰まりました。
方向も違っているようです。

これでどう進めばよいものか、
と悩む間もなく、そこはTouk Vil小学校の目の前。バライのこっち(北)側もTouk vilだったのね。。。

イメージ 2

群がる子供たちにいろいろ聞きつつ。

ここから先には進めない、とあきらめていたら
ふと、

彼らが乗ってる自転車が目に入った(☆∀☆)。

「キミタチ?まだ学校は終わらないよね?」
「そうだよそうだよ。」
「えーとちょっと、頼みがあるんだけど,アハ。」
「なんだよなんだよ。」
「おいちゃんたちに自転車貸してくれないかなあ?」
「うんいいよいいよ。」
「ありがとう!」

ああ、純朴な子供たちに対してなんという所業、
彼らの自転車まで強奪してまで遺跡に行こうとするとは
なにか一線を越えてしまった気がする。

って見ると

みんな苦労してるのねぇ(涙)。
ある台はブレーキ、ある台はペダルもない。
こいでみたが止まれねえ。

完全な自転車など、当たり前だ、望むべくもない。
にぎやかな、シェムリアプからちょいと離れた西バライの反対側なのに、もう
こんな感じだ。

よくみれば、学校も伝統的なカンボジアの木造でやしの葉で葺いた家の大型版である。
まだコンクリートなどではない。
風情があるなあとこちらは勝手に思ったりするが、どうなのだろう。

ちなみにここからどのくらいかかるのか聞くと、
2時間と、いう。

やはりやめておこう。
時間がかかるのはよい。
いや、いろいろとよくない。
第一、自転車貸してくれた子供たちを待たせてしまうではないか。
まだ日が落ちるのも早いというのに、なんとひどいことを。。

なんか案内してくれると張り切ってる子供もいるが、学校さぼらせるのは
これまた我ながらひどい所業でないか?

「いや、いいんだ、分かったよ、みんなありがとな。」
結局自転車は借りずにもどった、記念写真だけ撮らしてもらった。
次にでも届けにいけるだろうか???

いや行けないのなら無理しなくてもいいのだ。
ましてや、小学生の今にも壊れそうな自転車を借りてまで行くことは、
やはり気が引ける。

ルビコン川かPuok川かわからないが、とりあえず一線を越えずに引き返した。
ちなみに学校の先生どこにいたのだろうか?

・・・
このあとちゃっかり戻った集落で
村人からバイクを借りて、案内の地元少年と3ケツして遺跡まで行きました。

イメージ 3


昨日の書きかけなので続きは今日ということで。

いつもこんなことしてるわけではありません念のため。