カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Vat Neam Rup ?Trapeang Don Onの碑文K.254前書き お詫び行脚。

えー。


写真ありません。ほとんどありません。

GWで暇で暇で仕方がないので、カンボジアの碑文というかフランス人の文献の研究でもしてみるか、と
いう奇特な方以外は読まなくて結構です。

お写真を楽しみにされてた方には、あとで気が向いたら趣向を変えた
テスト記事を掲載したいと思っております。。。

ていうほど読んでる方はいないと思いますが(´▽`*)アハハ 。

・・・

Vat Neam Rup、過去はTrapeang Don On出土の碑文とされる、K.254ですが、
昨日コメントいただきましたとおり、
この二つの名前の遺跡が同一のものであるかどうかは、大いに疑問が残るところです。
てか、違う遺跡でした。

失礼しました。

まず
疑って悪かった編

Coedes先生のINSCRIPTIONS DU CAMBODGEⅢ p180~、1951を読んでみますと、
Vat Neam Rupについては、一言も触れてませんでした。
さらに、
かれはこのTrapeang Don OnについてはPrasat Kok Poの5km北北西、という記述しかしてません。

となると、Neam Rupと、Don Onとを同一のものとして考えていたわけではなさそうです。
先生すまねえ。。。
・・・

記憶喪失編

それに対して
Aymonierは1901年
すいません、今フランス語版しかもって来てなかったので、英語版よく読めばよかったのです。
ちゃんと彼もNeam RupはTrapenag Don Onのあとに書いてます。てか線まで引いてて読んでたこと忘れているとは
ビバ若年性?健忘症。。。
そこの方初老期というなかれ。orz.

Neam Rup =Namrupa意味は一緒で名前の変更、
ちゃんとかいてますね。
デヴァターについてもアンコールワットに見られるような、と、こちらはバンテアイスレイ見つかってないので、こんな感じですが、ちゃんと記してあります。

Trapeang Don Onについては遺跡の記述がないので、どんな様子か分かりませんが
なぜか彼はこのトラペアン、つまり池を覆うニオイヒツジグサ(nymphea)の
花について記述しています。私の読み間違いでなければ。。。
謎です。

言い訳編
いやあ、

こんな間違いをしでかしたのも実は、

CISARKさんのサイトでは
Vat Neam Rupの別名を Trapeang Don On としてるんですよ。。。
しかもNeam Rupのプランの中に思いっきし赤でK.254と書いております。

やっちまってます。

これで一晩悩みましたよ。。。orz
まあこういう間違いもご愛嬌ということで、私の睡眠時間は取り返せませんが
ご容赦くださいませ。


以上
昨日yoshimuraさんよりコメントいただいたように、この二つの遺跡は別のものです。

せっかくですから、フランスの先輩方がなんて書いてるか、
もうちょっと読んでみましょう。

てか記事書く前に読んどけってつっこみもありえますが。

Lajonquiere(1911、p287)はこのTrapenag Don Onのことを、

Trapeang Don Uとしてますが、Neam Rupの西2kmと書いてます。

最初にこれを読んでおけばよかったですつくづく後悔。。。
これからはLajonquiereも標準参考文献にしたいと思います。

イメージ 2


というわけで、この遺跡の位置関係はこんな感じになるかと思われます。
多分ですが。。実際両者は3kmほど離れてます。が2kmではめぼしい遺跡が見当たりませんので。。。

ああ、また行かなければならない遺跡が出てきた。。。

Lajonquiereの
Neam Rupについての引用をさわりだけ。

「Neam Rupはロヴェク集落の西3kmにある寺で、寺僧たちが、パゴダに定住しており、その寺院の修復を待っている。そこにはかつて、3基の砂岩寺院が整然と並んでいた。
それらの門と、偽扉には質素な装飾が施されている。」
質素な装飾・・・

さびしいのでやはり写真を一枚だけ再掲載。
イメージ 1


「すなわちデヴァターが横のパネル一杯を占めた長い蓮の花の茎を持ち支えている。」
これで、彼の記述が間違いなくNeam Rupのことを述べていることが分かったかと。。
それにしても、質素な装飾。。。
まあ、彼はバンテアイスレイを見ているから、なのかも知れませんが。

ちなみにラジョンキエールは唯一残っていた、祠堂を中央祠堂と考えていたようですが、
位置取りからみると、どうだったのかは、なぞですね。
それと、この寺院のリンテルの美術様式をⅢ型と書いてます。
この時代の分類法はいかなるものだったのか??



ちなみに、この碑文
71cmx24cmの四角い石柱で、その4面に碑文が記されてます。

ここで訂正ですが、サンスクリットだけでなく、クメール語のパートもありました。。。
こういう碑文のため、長く、そして、12世紀の王様の名が陸続と出てきます。

それと、非常に興味深い神様の名前も(C'ivasPada)。。

結構重要そうな碑文ですので、ひょっとしたら、アンコールから近い衛星都市っぽい、
この町の中心であるNeam Rupに、碑文を据えたと考えられないこともないです。

ちょっと内容を見てみないと分からないところがありますね。

というわけで、読んでいきたいのですが、
今までのところ、自分の行ったことのない遺跡の碑文は読まない方針で
行ってますので、ちょっと棚上げします。

夏、雨季でもアプローチ可能ならば(多分お寺があるので可能と思われます)
行ってみます。その後で碑文解読したいと思います。

というわけで、一区切り。。。

ちなみにここら辺書いてて思ったことですが、
メモ。
当然バンテアイスレイよりも、アンコールトム内の、クレアンのほうが
先にフランス人に見られているわけで、美術様式を決めたのは誰か今すぐは分かりませんが
クレアン様式の設定がまずありき?
後にバンテアイスレイに気づいたフランス人がバンテアイスレイ様式として独立化。
これは推測でしかも横道ですがメモとして後日、検証したいと思います。
メモ終わり。

参考文献
1.G.Coedes"INSCRIPTIONS DU CAMBODGE Ⅲp180-192"EFEO,Paris,1951
2.E.Aymonier" le Camobdge Ⅱ" p380,
English translated by Walter E.J.Tips "Khmer heritage in the Old Siamese Provinces of Cambodia"
White Lotus,Bangkok1999
3.E. Lunet de Lajonqui??re"Inventaire descriptif des monuments du Cambodge Ⅲ"p287,1911
以下のサイトより。
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k98797w

問題のw
CISARKさんいえいえお世話になってます。
http://www.site-archeologique-khmer.org/core/showsitedetail.php?id=494