カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

特別法廷

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あまりに写真がないのもあれですので再掲っぽいのですいませんが2007年4月の
ポルポトの墓を。

追加:S21ことトゥールスラエンの収容所を。ここの所長こそ後述するドゥイッチことカン・ケ・イウ受刑者です。

ここで大量虐殺、あるいは有名なキエンスヴァイのキリングフィールドに送られて虐殺された。
16000人とも言われる収容者の中で、生存者8名。

・・・・・・

ほとんど放置状態のうえ、今度は来年以降どうなるのか未定のわが身ですが、また転職の隙を縫って旅に行けたらいいなと思います。が、ブランクがあくとちとつらいお年頃ですw

ちょっと自分用のメモに、今カンボジアで行われているポル・ポト派に対する国際法廷、自国民の大量虐殺という人道的罪に対する裁判の行方をまとめておきます。

いよいよ本日 ポルポト派のNo2、ヌオン・チアはじめ4人が起訴されました。
がいずれももう高齢者でどういうなりゆきになるのか分かりません。

大体日本においてもそうでしたが、ポルポト政権の初期、政府の表に立っていたのは今回起訴された
キューサムファン(元首扱いの議長)や、イエン・サリといった面面でした。
連中は1978年の日本のまぬけなと言っていい、使節団にも会ってます。

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/cambodia/?1284614742

現代史もいろいろ突っ込みたいところがありますがそれだけで大変なことになりますのでほどほどにしておきつつ。というかごらんの通り歴史というよりは政治の話しで、私が扱うには生々しすぎるという個人的感想があり、
私がいろいろ言えるのは当時の資料を穿り返して断片を伝えること、それをいつできるのかは分かりませんが。

先日禁固35年(実質18年)の刑を受けて控訴中のカン・ケ・イウ(通称ドゥイッチ)も、起訴前に2006年に死んだ苛烈なタ・モクも一体どういう理由であれだけカンボジアの人達を虐殺することになったのか。

歴史的な意味ではなく分かるところまで追求してほしいものであります。

ちなみにこの2名についてはフランス人のフランソワ・ビゾの著書
カンボジア・運命の門」に記されてます。
タ・モクはいかにも、と言う感じですがドゥイッチは著者と奇妙な縁で関わってます。

それと国際法廷については日本もかなりの金額を出して、スタッフも出しています。
先日NHKローカルで特集されてました。
http://www.nhk.or.jp/fukuoka/asian/index.html

しかし、フンセンさんは実際のところポルポト派とは手打ちにしたのであまり裁判をごたつかせたくないようです。
ググッたら笹川陽平氏の位しか出てきませんでしたがまあ
http://blog.canpan.info/sasakawa/daily/200909/14

本当のところは、実際カンボジアの人達がどう言う結論を出すのか、が一番大事だろうと思います。
若い人達はポルポト派の虐殺すら知らない人もいるらしいです。

一方で未だに涙の絶えぬ人もいる。

ちなみにカンボジア死刑廃止されてます。





まあメモ程度です。。

本格復帰はいつになるやら。

ラーマヤーナ再開の予定ではあります。最初からやり直すと思いますがw。