カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

アップがうまくいかないのでテスト

すいません。リハビリも兼ねてますが前回の続きです。あまり真新しいことは書いてませんが。。


昨日の記事にS21ことトゥールスラェン収容所、所長こそドゥイッチ(カン・ケ・イウ受刑者)の写真を追加しようとしましたがうまくいきませんでしたので、簡単に。。

イメージ 1 

もともとは中学校でした。改造されて政治犯というか白を黒と言って収容された人たちをどんどん虐殺して行きました。写真のすみっこにうつっている鉄棒も虐殺の道具として使用されました。嗚呼。

イメージ 2 

格子の外のみずみずしい植物、光のまぶしさと室内の陰鬱さのコントラストが生々しいです。
足かせがリアリスティックです。ほかにまだ血の跡が残るベッドとかもありましたがこれは写真に軽々しく撮ってはいけないと思いました。




ここに収容された、全ての、言いがかりとしか言われないような収容者たちはここで、あるいはキエンスヴァイ(マンゴーの丘という名前だけは情緒的な)キリングフィールドで。虐殺されました。

なんだか以前ここにきた田口ランディが泣きさけんだとかいう対談読んであまりのあざとさにむしろしらけてしまいましたがそれもまた忘却の彼方。


いああまり人のことは言えません。

そのキエンスヴァイです。

イメージ 3 

でも実際田口氏が書いているように、もう土が露出しているいたるところに人骨が見えます。彼女が泣き叫んだのは実はわけがあってちょうど出産したあとで、ここにきたらどうみても嬰児としか思えない人骨を見つけたからだということだったようです。それは分からないではないです。
でも泣けば済む問題かという釈然としない部分もあります。うまくいえませんが。。



本当に痛ましい場所です。一つの穴に300人ほど埋められたと言われてます。あっさり書いてますが意味をかみしめると戦慄します。


イメージ 4 
納骨堂というか慰霊塔です。あえて遺骨は木に隠しました。勝手にさらしては悪いと思いました。


なぜかここで韓国人にハングルで話しかけられて日本人だと言ったら硬い表情で握手を交わした思い出があります。まあ平和が一番ですね。

S21に収容された人たちは妊婦、赤ちゃんも含めて16000人以上と言われてます。
そのうち1979年ヴェトナムがプノンペン侵攻して、ここの連中が全て放りだして逃げたため生存できた人は8人と言われてます。あとは全て。。。

その中には足かせ手かせで拘束されて死を待つだけだった方もいたといいます。
S21には犠牲者の写真がずらっと並んでいます。本当に其れを見るだけでも胸が締め付けられます。
生々しすぎるのです。過去の歴史ではなく現代の出来事なのです。

カンボジア大虐殺については当初ヴェトナムのプロパガンダで犠牲者300万人とか言われ、禁則事項新聞は第二次世界大戦の二の舞でカンボジアポルポトマンセーで知らぬ存ぜぬだったのをあっさり転向して手のひら返して禁則事項勝一氏などは虐殺の非道さをヒステリックにわめき始めました。

しかし現在の推定では150万人と言われてます。
若干左派的なマイケルヴィッカリー氏はやや懐疑的で80万人位と言ってますが、これもかなりのバイアスがかかってます。しかし、彼のいうようにポル・ポト時代以前から、シハヌーク時代から、政治犯への虐待や虐殺、内戦時代の政府軍の蛮行はこれは日本の週刊誌にもえげつない写真入りで紹介されているくらい、知られてましたし、日本の戦時中に使用された爆弾の100倍ともいわれるアメリカ軍のカンボジア、ヴェトナムへの爆撃の犠牲者も数10万人と言われていることは留意する必要があります。

しかしそれでも

カンボジア全土にあるキリングフィールドを見ても、相当数の犠牲者がいると思われます。

しかもそういうアメリカのカンボジアへの介入が、キッシンジャーニクソンの「だめもとでやってみっか」という安易な考えで行われたということも留意されなければなりません。

だからといってアメリカだけが絶対的な悪ではないのですが。
ポル・ポト派の背後には圧倒的にソヴィエト―ヴェトナムに対抗するべく中国共産党がいました。
このことも遺跡探訪のなかで少しずつ紹介して行きたいと思います。

でもそうなると我が日本のカンボジアでの功罪についても触れなければならなくなるでしょう。

あくまで歴史的な意味合いで、どこまでまとめられるかはなぞですが。

参考文献はまた戻り次第あげます。日本の週刊誌も含めて。。