カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

バッタンボンの遺跡についていくつか

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今回は観光案内からはじめたい。

カンボジアの西の主要都市バッタンボンは、人口15万人とカンボジアでは第二の大きさを誇る、バッタンボン州の州都で、昔はもっと広かったがバンテアイミェンチェイ州とに分割された。昔から土が肥え、有史以来餓えることのなかった土地とたたえられ、先史時代から人がかなり定着していたようだ。一時期タイが取り上げていたのも地勢学的な理由だけでなく豊かさゆえだったかもしれない。フランス保護領になってカンボジアの物と一応もどったが、今でもドルよりもタイバーツが通用する町である。どるもおkであるが。

そして
生活のゆとりからか、国民歌手スン・シー・サモットはじめ多くの芸能人を生み出した土地でもある。
追記:彼は東の方の生まれだったので訂正します。ただしこのプノムサンパウについての歌を数多く残しています。
その、シーサモット氏も確か1978年にポルポト派によって殺されてしまったが、彼の歌は今でも老若男女とわず、歌い継がれている。

しかしそのポルポト派がかなり市民を弾圧した土地としても知られており、南西の郊外には中国の指導のもとで一万人以上の犠牲を払い作られた貯水池、コンピンブイがあり、聖山として国中に知られていたプノム・サンパウでも自然の鍾乳洞や竪穴に幾多の無辜の人々、それは妊婦や彼女らから引き裂かれて取り出された胎児も含まれると言う-が惨殺され投げ込まれ、キリングケイブとして供養の参拝者が後を絶たない。
さらに、
困ったことに遺跡の石をばらして堤防や他の建材に使用したりしたために消滅した遺跡も多い。ここらへんのことは映画「キリングフィールド」で主役のプラン氏を演じた、彼も今はなきハイン・ニョール医師の「キリングフィールドからの生還」などに記述が見られる。

楽しい観光案内をしたいのだがどうしてもテンションがさがってしまうことをご寛恕いただきたい。
ちょっと雰囲気を変えて、町の様子など。。
やはり古来豊かな町というだけあって、食べ物が2つの大きな市場にあふれており、人々も活気がある。
そして、19世紀にヴェトナムより逃れてきたチャンパの民、チャム族(クマエ・イスラムという)もけっこう住んでいてちょっとエキゾチックな感じもあるが、古く大きな上座部仏教寺院も多く、それも豊かさの表れかもしれない。
その古い寺院のいくつかは、多分古来の遺跡の跡に建っていると思われる。Aymonierの本にも出てくるが、古い碑文が出た、ワット・スラケットもそのひとつである。遺跡が好きな方はワット・エクに行く途中にあるので寄って見るとよいかもしれない。あるのはワットエクの遺物を持ち出したものが2点くらいだが。ちなみにここの立派な寺院の本堂はプノンペンの王宮の設計者が設計したとか言う話であった。

町はストゥンスレン川に沿い、碁盤状で分かりやすいし、シェムリアプと違い、バイタクが寄ってくることもない。逆に利用する人は街中のいくつかあるホテル前などで捕まえないといけないだろう。歩き方にも載っているが、いくつかの外国人向けのレストランバーがある一角はそこだけ23時ごろまで旅行者でにぎわっているがシェムリアプの喧騒に比べればみなで片寄せあってぼそぼそ、って感じではある。でもゆっくりできる。そのゆったりした感じがなかなか気に入った。

おっと遺跡について語らなければならなかった。バッタンボンの主だった遺跡は歩き方に書いてある3つと、プラサートスネンであるが、一説には300以上あったらしい。ワットエクにいた警官のオッサンの情報でもバサエットに行く途中にいくつかあると行っていたが、途中の村で聞いてもないと言う答えしか帰ってこなかった。これはクマエイスラムの人に聞いたためもあるかもしれない。
それと繰り返しになるがバサエット(バセット)の先にあったという、AD1163年銘などの碑文や、どこにいったか美しいブラウマ神が近くにあったというTa Ke Pongはきれいサッパリ消滅して畑になったとの由であった。ので行かなかった。

私は遺跡の知られざる一面やあまり知られてない遺跡について紹介したいので、後半では、プラサートスネンの美しいリンテル(まぐさ石の彫刻)とバナンのサンクチュアリーであるプレアトゥック=聖なる水、について述べたい。スペースがあれば、これもかなり古い遺跡というか、遺構であるモンコルボレイの、バンテアイネアンについて触れて見たい。いずれもバッタンボン周辺に行かれたときは必見であるが危険もあるので気をつけてくださいw。

ではウィークデイなので後半でなく、明日に続きます。
写真は鎮魂の意味も込めてプノムサンパウのキリングケイブと、そこに祭られた涅槃仏に敬虔に祈りをささげる若い子ら。そしてワットスラケットに残されたポストバイヨンのナーガブッダの石碑。これを修復した方も1976年にポルポト派の手で殺されたと側面に書いてあった。

参考文献 
1.Etienne Aymonier ”Le Cambodge.供
English translated by Walter E.J.Tips "Khmer heritage in the Old Siamese Provinces of Cambodia"
White Lotus,1999
2.Haing S. Ngor , Roger Warner "Survival in the Killing Fields" , Constable and Robin,2003
邦訳は「キリング・フィールドからの生還―わがカンボジア「殺戮の地」」光文社、1990