Prasat Thanong IK376 No.915その4 最終回
土曜のうちに書きためてこの遺跡について終わらせたいと思います。日付けはとっくに変わってますけどw
まあ今回はおまけなのでスル―推奨かもしれません。妄想の産物です。
画像も博物館のを勝手にどんどん出すのもはばかられるので自粛気味です。
まあ今回はおまけなのでスル―推奨かもしれません。妄想の産物です。
画像も博物館のを勝手にどんどん出すのもはばかられるので自粛気味です。
追記: ちと修正します。
さて。
今まで見てまいりましたPr.Thanongですが、時間の都合ですっ飛ばそうと思ってました。
だがしかし。
今まで見てまいりましたPr.Thanongですが、時間の都合ですっ飛ばそうと思ってました。
だがしかし。
Surinの国立博物館でこの遺跡のことを知り、行かずにはおれぬと思った次第です。
Lonely Planetにもネタ化され、なんだかなし崩し的にオープンしたっぽいスリン国立博物館については
ふうみん様サイト ムーンリバーの休日に詳しく書かれてます。
Lonely Planetにもネタ化され、なんだかなし崩し的にオープンしたっぽいスリン国立博物館については
ふうみん様サイト ムーンリバーの休日に詳しく書かれてます。
私が行った時もなし崩しに見学して、結局誰も金を徴収にこなかったです。ミュージアムショップにはガイドブック、本など売ってますので売り上げ貢献に本を購入。読めないけどw
ちなみに見物客は朝一だったせいか?私のほかタイ人のご家族4名のみでした。職員はやたら多かったが・・・。
展示物についていろいろ挙げるのはやめときますが、クメール美術好きなら行って損はありますまい。
とくにプレアンコールに興味が御有りなら。
ふうみん様サイトに博物館所蔵のきれいなPr.Phum Ponの,Prei Kmeng様式のリンテルが掲載されてます。
とくにプレアンコールに興味が御有りなら。
ふうみん様サイトに博物館所蔵のきれいなPr.Phum Ponの,Prei Kmeng様式のリンテルが掲載されてます。
私も先達に倣ってアクセスを記しておきますと、SurinからPrasat(という地名)、有名どころではPr.Ban Pluengの方面へ南下する214号線沿いにあります。5km位町から南下したら左側に注意してるとこのアイボリーで統一された壁とその奥にこの建物が見つかると思います。本格オープンしてるのかどうか私にも分からなかったので営業日などは不明です。のでほかの国立博物館の営業日時を目安にするしかないかもしれません。
さて、その国立博物館でこの、Prasat Thanongの発掘調査を行った時の展示がありまして。
発掘は1993年に行われ、青銅の指輪と、鉄器時代の鉄の屑やガラス玉、そして土器壺が出土したという話です。
発掘は1993年に行われ、青銅の指輪と、鉄器時代の鉄の屑やガラス玉、そして土器壺が出土したという話です。
まあせいぜい鉄器が今のタイに中国南部、あるいはインドから伝わったのはどんなに早くても500BP~紀元前後ではないかと思われますが。
つまり、このPrasat Thanongは、先史時代の遺構の上に、建てられているわけです。
これは興味深い。
これは興味深い。
ということで見に行くことにしました。
で、ご紹介したとおり遺跡を見て回ったのだが、これだけでは先史時代の名残はさっぱり分からないと
ご覧のみなさまもお思いでしょう。
ご覧のみなさまもお思いでしょう。
だがしかし、遺跡だけが歴史を語るのではない。遺跡に残る遺物も歴史を語るのです。
見ていきましょう。
遺跡東エントランス前にて。これは土器片ですね。
多分埋葬時の副葬品の一部でしょう。すこし釉薬というより化粧土がかかってるようですが。
これはもうびっくりですね。よくご覧になればお分かりの通り土器片ですが中央に朱の線が入ってます。
これは主祠堂前におちてましたが先日紹介したトレンチ?からでてきたものでしょうか。
それにしてもこれは相当古そうです。ただバンチェンタイプというほどの古さでなくやはり時代的には紀元前5C位と見積もっていたほうが無難でしょう。
これは中央祠堂内部。よくみると白いうわぐすりで表面がすべすべしていて、単純な土器ではなさそうなことが分かるかもしれません。
こんな感じで、たくさんではないですがよく見れば、この先史時代の遺物である土器片が結構広範囲に表土に落ちてます。
(追記:考えてみれば当たり前ですがこれらの土器片が全て同じ時代であるというわけではなかったですね。ただし先史時代のものであることには変わりはないでしょうが)
発掘の時出てきたものなのか、長い年月を経て出てきたのか、あるいは一番可能性があるのではと思ってますが、この寺院を建立するときに掘り返した際出てきたのではなかろうかとか。
というのもなんだかんだで1993年に発掘調査された場所というのは、この2か所から離れた、西門の北側あたりで、人骨がでたのもそこからなのです。発掘の際に出てきたにしては遠いのでは。
それと遺跡のあちこちにこういうものが落ちているということは、やはり子どもが遊んでばらまいた、というわけでもなさそうで、やはりこの遺跡を作る際に掘り起こしたためではと思われます。
さらにいえば、1993年の発掘で遺跡の北西部で人骨が出たということであれば、遺跡のあちこちに壺の欠片を見る以上、遺跡のあちこちの下に、まだ古代人が埋葬されて眠っているのではなかろうかと。あるいは寺院建立中に掘り起こされてたかもしれないですが。
Surinの国立博物館の展示を見ると、ここら辺は3層の地層があって人骨はいちばん深い第三層表面から出てます。遺跡の基盤もそこまで達してはいます。
写真を挙げたいですが人骨があるので自粛してるのでまだるっこしくてすいません。
写真を挙げたいですが人骨があるので自粛してるのでまだるっこしくてすいません。
つまりクメール人たちはここが古代人の埋葬地か何かであり特別な場所であったことを、知っててその上に寺院を建立したのではないかと考えられます。
カンボジアで古代の遺構の上に寺院を建てるパターンで分かってる場所はどこだろうかと考えたりもしましたが、今まで書いてきた遺跡のなかではPhum Snayと、多分Pr.Neak Buosくらいしかおもいつきせん。調べたらほかにいろいろあると思いますが。
(追記:参考文献4を読んでいたら、なんとまあまぬけなことに、今回見てきた遺跡の中でも
Phanom Wanの主祠堂下(そういえば横のレンガ塔2基はどう見てもプレアンコールでしたわw 横のNoen Orapinもあやしいかもしれない)、およびPhimaiの主祠堂下にも(これは扶南まで下がるか)先史時代の遺構が眠ってると書いてあるではないですか。全く気付きませんでしたわ。
Phanom Wanの主祠堂下(そういえば横のレンガ塔2基はどう見てもプレアンコールでしたわw 横のNoen Orapinもあやしいかもしれない)、およびPhimaiの主祠堂下にも(これは扶南まで下がるか)先史時代の遺構が眠ってると書いてあるではないですか。全く気付きませんでしたわ。
ピマーイのインフォメーションセンターしょぼかったがもっとちゃんとみとくべきだったか。
これでもういいやと思ってたこの2遺跡は再訪しようという気になりました。)
これでもういいやと思ってたこの2遺跡は再訪しようという気になりました。)
ただ、クメールではないですがこの後見に行ったBan Prasat(Korat)のサイト2では人骨が埋葬されている上に多分Dvaravatiであろうという、宗教施設が建てられていたのがありました。
どういう意味合いを持ってそうしたのかは、謎ですが色々空想してみると面白いですね。
まあ日本のような神として祀り上げて封じる、という要素はあまりなかろうと思いますが、はたして。
まあ日本のような神として祀り上げて封じる、という要素はあまりなかろうと思いますが、はたして。
ただ、
出口のふさがった西門と、ちょうど人骨が出た個所が隣り合ってることだけ指摘しておきましょう。
出口のふさがった西門と、ちょうど人骨が出た個所が隣り合ってることだけ指摘しておきましょう。
いずれにしてもこの遺跡は非常に興味深い場所であることは間違いありません。
また発掘調査とか修復が進めば探訪してみたいです。
また発掘調査とか修復が進めば探訪してみたいです。
レンガが上に乗せられてるけどなにしろ絶対量が足りなさすぎる。
それにしてもこの中央部のコンクリの台というかふたのようなものはなんでしょうか。
ろうそくや水がおかれててピー(あるいはNeakTaか?)として祀ってるのでしょうけどなんでわざわざコンクリのふたを作ったのかと不思議に思われます。
ろうそくや水がおかれててピー(あるいはNeakTaか?)として祀ってるのでしょうけどなんでわざわざコンクリのふたを作ったのかと不思議に思われます。
まああまり宗教的なことに立ち入っても悪いし君子怪力乱神を語らずで参りますが。
まとめ
この寺院自体は11世紀中盤の建立。しいて言えばバプーオン様式。
回廊と、その西の東西に門というか前廊後廊をもつ周壁に囲まれた、左右対称の経蔵と中央祠堂とからなる。ちょっと変わったPlanではある。が、まあぶっちゃけ西門のような出られない構造(false portico)は、カンボジアの遺跡では、ままある。
回廊と、その西の東西に門というか前廊後廊をもつ周壁に囲まれた、左右対称の経蔵と中央祠堂とからなる。ちょっと変わったPlanではある。が、まあぶっちゃけ西門のような出られない構造(false portico)は、カンボジアの遺跡では、ままある。
付属の池は小さいのが東南に、もっと東に大きなバライがある。補足。みそびれたw
グーグルアースでも貼っときますか。
グーグルアースでも貼っときますか。
現在修復中でまた新たな発見もあるかもしれない。
てことでまた西からの俯瞰図をみつつこれにてこの遺跡についてはひとまず終了させていただきます。
てことでまた西からの俯瞰図をみつつこれにてこの遺跡についてはひとまず終了させていただきます。
とりあえずリハビリはこれくらいで、いよいよラーマーヤナにとりかかりますかな。
参考資料
いつもの
1.Etienne Aymonier ”Le Cambodge.Ⅱ”188P
English translated by Walter E.J.Tips "Khmer heritage in Thailand"
White Lotus,Bangkok1999
まあどう読んでもこの寺院のことはあまり書いてない。
いつもの
1.Etienne Aymonier ”Le Cambodge.Ⅱ”188P
English translated by Walter E.J.Tips "Khmer heritage in Thailand"
White Lotus,Bangkok1999
まあどう読んでもこの寺院のことはあまり書いてない。
2.Lunet de Lajonqui?re "Inventaire descriptif des monuments du Cambodge"Tome Ⅱ
CEDORECK,PHNOMPENH,2001 138-139P
Planも載ってるがいまいち採用できない。
CEDORECK,PHNOMPENH,2001 138-139P
Planも載ってるがいまいち採用できない。
3.スリン国立博物館で買ったタイ語のガイドブック?題名の最後のスリンしかわからずw
一応表紙写真など追加しておきます。本はA4判です。Thanongのこと載ってないぽいがw。
4.Charles Higham "The Iron age of Thailand:trends to complexity" 50 Years of Archeology in Southeast Asia Essays in Honour of ian Glover" 129-139P, River Books,2010
参考サイト
ふうみん様サイト http://kuradashieigakan.com/con11kume/contents11.htm
T.I.様サイト http://khmerruins.aikotoba.jp/
いつもの
CISARKさんとこ http://www.site-archeologique-khmer.org/
一応表紙写真など追加しておきます。本はA4判です。Thanongのこと載ってないぽいがw。
4.Charles Higham "The Iron age of Thailand:trends to complexity" 50 Years of Archeology in Southeast Asia Essays in Honour of ian Glover" 129-139P, River Books,2010
参考サイト
ふうみん様サイト http://kuradashieigakan.com/con11kume/contents11.htm
T.I.様サイト http://khmerruins.aikotoba.jp/
いつもの
CISARKさんとこ http://www.site-archeologique-khmer.org/