カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Phnom Krabas(Kao Phu Fai) no.936 IK.397  中盤

2月25日追記
いつもさりげなくご教示くださるKI様によって私の勘違いが解決しました。
この前日の記事のコメント欄をご参照ください。
それにともない
この記事の画像を改訂いたしました。

ありがとうございます。」

後半。の前の中盤。後半はいつになるか不明w

とりあえず先ほどのお堂らしき建物へ戻る。
その前になんとか歴史的遺構らしきものを見つける。これは看板まであったしT.I.様サイトで事前に予習していたがSara Naam Daam Boran
である。
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結構深い。山上の貯水池ゆえか。ここも池の周りの堰堤は自然石を積み上げたものだった。
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うむここはBoranというだけあって古そうだ。池があるということは、ではこの西側にPrasatがあっても
おかしくはない。
てことでまた戻る形で池の西を徘徊する。公衆便所や水浴び用の浴槽などあり、なにがしたいのかこんなに施設をそろえておいてしかも放置して。と思いつつ。

お!
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それらの施設の奥に、塚状の隆起があってこのように人工のラテライトが立ててある。
おお、やっとみつけたか。
それしにてもレンガのデブリとかあればうれしいが全くないのはどうしてだろう
と表に回ってみると。。。

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あー、これみたことあるタイのプラ屋とかで目玉に赤い石が入ってたり・・・うんあれって全然新しいよね。

脱力した。

ここは何かのカルトのアジトかなんかだったのか?

この脱力した人形(ヒトガタ)みて、さあ帰ろう、なつかしいふもとへ。
そうおもった。
なんといっても一時間半も
虚しく彷徨っただけだった。 

が実はそのあといやいやまだ終わらんよとさらに道なき藪を踏みわけ進みまたあの大仏に再会してようやくあきらめましたが
それはもういいやと思い話をショートカット。

もと来た道を、だいぶ傾いたそろそろ夕日と言いたくなるような日差しの中山を降りる。まさに空山人を見ず、の唐詩のまんま。それを体験しただけだったようなw。

結局何だったのか。

さっぱりわからずじまいだしふもとに降りてもやはり寺には人影なく。次の遺跡が待ってる、いつかまた再訪しようと思って去ることにした。

さて帰国してからCISARKさんサイト見るにつけ、実際山中に遺跡があったらしく、それはしかしもう散乱する多少のレンガを見るにすぎないらしい。

なんか読んで愕然としたので久々にAymonierよりまんま引用しておきましょう。

「Phnom Krabas,”綿の山”は平原のなかの孤立した丘であり、Moeuong Koukhan(今はKhon Han)から東に一日がかりの行程であり、その山頂部は規則正しい丸い山頂で、東西に長く(実際はどっちかというと南北に長い)、80mほどの高さである。自然は小さな砂岩の壁を彫り出し、そレは東西100m、南北に80mの広さをもつテラスを形成していて、その中央には近隣の村人たちが新年を迎える饗宴をこの丘で行う風習のために掘られた井戸がある。

小さなレンガ塔、それはもう完全に壊れてしまっている-が、このテラスの北東の角に向かって建てられていた。
その囲む壁の南側には、自然に穿たれた第二の井戸があるがこれは完全に枯れている。
そして西側には、この丘の坂にあるほら穴があり仏像で満たされている。

「塔の扉の壁の一つには(塔現存していたのか???)、二列に分かれた12行のサンスクリットの碑文が見られていた。しかしながら、その文字はほとんど判読できない。
たぶん最初は書かれた日を判じ文(数字を比喩で表現することについては類例多し)で記されていたであろう、最初の9だけ判読できる。
最後はOm namas'siva_yaの祭文で終わっている。」

とまあ1世紀以上まえのはなしではありますが、何かと衝撃的なくらいいろいろあったようです。
そしていろいろ見逃しているようです。

どうもこの井戸が先ほどのサラ―なーむだーむぼらーんなのでしょうか?
ちょとわかりません。確かに水を確保するためであろう高さ3mになんなんとするような大きな壺のようなものが置かれてましたが。
そもそもこのテラスとはどこでしょうか。大仏の建ってたところもテラスと言えばテラスですが。
自然の砂岩の壁とか思い当たらない。山頂の北の真ん中あたりもそんな感じではあるが、とても藪の中で小屋もなく人がそんなことしてた気配はなさそうであるが。

どうやら荒れてるように見えていろいろ設備がそろってるてことは、まだエイモニエが記した風習は生き残っているのかもしれません。実際この日は中国正月でしたが彼らにとっては平日、4月のソンクラーンに来てみたら面白かったかもしれません。

それと碑文。これ見るといくらレンガ塔が荒れてたとはいえ碑文ののこる石柱が建っているほどではあったらしい。しかし今や影も形も碑文もない。当時からもう磨滅していたであろうけど、それにしてもどこいった。

結局消化不良を再確認しただけだったのでまた行ってみたい。ただあれだけうろうろして見つけられなかったのであきらめたほうがいいか。。

色々と思案にくれつつ最後にAymonierの時代にもおかれてたかもしれない中国産の酒壺など。
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まあ福建辺りから19世紀に盛んに輸出された酒かなんかの壺ですね。

というわけでとりあえず今日は終わります。
碑文が出てる以上いずれまたいつになるかわかりませんがw碑文について書いて、この遺跡もどきをおえますが、ネタはあまりありません。
セデス先生も訳せないなどと書いてますw。

参考サイト
いつものCISARKさん
http://www.site-archeologique-khmer.org/index.php
ただしタイの遺跡はログインできないと見られない仕様のようです。

追記:よくよく読めばCISARKさんサイトで遺跡の詳細が記されていました。どうやらリンテルのあるWat Sphannartは別の場所にあるようです。この山の4.6km南とのことでPr.Tamnak Saiとこことの中間あたりになりそうです。大ざっぱな地図も掲載されてます。

T.I.様サイト
http://khmerruins.aikotoba.jp/
雨季に行かれたようで、となると書かれてるように蛇、蚊どっちも要注意ですね。。

参考文献
E.Aymonier le cambodge Ⅱ 201P、Ernest Leroux,Paris ,1901
英訳は
Translated by Walter E.J.Tips ”Khmer Heritage In Thailand" White lotus
なんと!きづかないうちにAymonierの本が続々と復刊されてるじゃないですか。しかも去年。
このle Cambodgeもぶっちゃけネットで公開されてるとは言えやはり本で見たいですしね。
いまのところまだⅠのみしか出てないですが、まさに我がブログの底本としているⅡ、が出たら万々歳ですね。原版の劣化にはらはらしながらページめくらなくて済みますわ。
そして
Ⅲまで出た日には感涙ものですが。

G>Coedes IC tome6,213P EFEO、Paris,1954
ラジョンキエールの一巻どこにいったやら。。

追記:
ご指摘いただいたようにWat Supannaratはまったく別の場所にあることが判明しました。
それと同時にプレアンコール、どうやらPrei Kmeng styleのリンテルはなんということでしょう、
ボン市内のWat Supattanaramにあるというじゃないですか。
後者はしっかりLonely Planetにまで書いてある始末。。

この二寺をグーグルアースで眺めては次はいつ行けるやらと嘆きつつ、ご指摘いただきましたKI様本当にありがとうございました。

多分寺の大きさとCISARKさんの写真と記述から見てここであろうという
Wat Suphannaratの位置。拡大すると結構大きなお寺ですねここは。てか記された位置付近に寺は
ここしかないので大丈夫なはず。。


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でUbonのこっちは有名なお寺のようだったようですが。
Wat Supattanaram
通称Wat Supat

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てか何回やってもこの画像小さくしか表示されないのはいったいなにゆえか。

ちょっと読み比べると新しいほうのLonely Planet(2009版)にはリンテルの記載が削除されてるのが気になりますが。。もしこれ見て行かれてなかったとお嘆きの方は博物館も近いのでそちらで無念を晴らしてくださいませ。