カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Phnom Khyang その4

前にちらりと書いて色々伏線張って来ましたが
小学校の裏にあるのに子供が近づかないのも
私が歩きまわるのに苦労するのも

この洞窟自体が墓地になっているからです。

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これは割れた壺ですが、もちろん骨壷です。
しかも割れてますのでもちろん人骨が散乱しております。

次の写真は若干写っております。閲覧注意しておきます。

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このようにちょっとしたくぼみなどにも割れた壺が散乱しています。

ここで注目すべき点は
人骨には荼毘に付されたものと火葬されていないものとがあることで
これは民族的葬送の風習の違いではなく、時代的な多層性を示しているということです。
ここでのご遺骨は中世以降は間違いなく荼毘に付されていたと考えられます。これは身分的な理由からも推測されます。

追記:岩に煤が付いていることからスペース的にちょと無理があると思われるのですが
壷関係なしにここで荼毘に付された可能性もあります。時代の同定については後日少しはっきりさせます。さらに言えばもっと時代が下れば民族的な葬送の違いがかなりというかそればかりになってしまいます。まるっきり上記の文章は妄想ですねすなわち。。。

さてやっと私的クライマックスにたどり着きましたが
よく見ると
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見つかりました。少なくとも新しくとも扶南時代までの彩色土器片です。
ここで
梁書 諸夷 海南伝を牽いてみましょう。
梁は中国南北朝時代の502-557年、南朝として仏教文化で良くも悪くも栄え滅びた国ではあります。
國俗,居喪則剃除鬚髮。使者有四葬:水葬則投之江流,火葬則焚為灰燼,土葬則瘞埋之,鳥葬則棄之中野

つまり家に死人が出ると髪やひげを剃る。埋葬には4種類ある。水葬は川に流す。火葬は荼毘に付して灰塵にする。土葬は埋める。鳥葬は野っぱらに置く。

とあります。つまり色々あったわけです。
そして荼毘に付されたと思しき遺灰、と火葬されていない人骨の破片とが見受けられるということは詳しく調べないと分かりませんがこれらの遺物が6世紀ごろにまで辿れるかもしれない可能性があるということです。その傍証として彩色土器片がかなり重要な意味をもってきていると思われます。

火葬するにせよしないにせよ、このような山の中腹に遺骨を安置するというのはどこか懸棺、つまり棺桶を断崖に吊るす中国やフィリピン、ルソン島の一部に通じるものがあるように感じられるのは私だけでしょうか。つまり故人を山に上げるということは天に昇るようにという願いのためでしょう。一方で
しかしこれは中国伝来のものではなく、私がダンテよろしくこの遺跡の入り口へと降りて行く時に感じたように暗い穴の底に冥界をだれしもが共通無意識としてイメージするためではないかと思われます。
天に近い山の中の穴の底。天国か地獄かは分かりませんがそういう洞窟に聖なるものを感じ取るのもまた人間だれしも多少は持っている感覚なのでしょう。

話がそれましたがいずれにせよここは少なくとも扶南時代には、存在が認知され、どうやら壺の破片を見るにこのころにはすでに聖地、もしくは死者が還る場所として祀られていたのでしょう。


そういうところに寺院を建てたということで以前提示したタイのPrasat Thanongにも通じるかもしれません。

ここら辺のことはこれ以上私が提示できることはないですが、本当に興味深く面白い。
つまり先史時代や扶南時代から歴史が資料不足のため断絶しているようでいて、しかしながら脈々と近世まで受け継がれているということが。

いつかはこういうことをまとめられたらと思います。

あとは見逃した部分を拾遺して行きましょう。

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祠堂背面、すなわち東面を撮ろうとしてます。
もう20cmくらいのすき間しかありませんでしたが。

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祠堂前の、ヨニもしくは台座と思しき破片。

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これを見るとどちらかというと造りがPhnom DaのAsram Maha Ruseiに近いようにも見えますが。
白いコーティングは石灰岩でしょうね。

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梯子を登る途中でふr(ry もういいか。

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入口に積み上げられたレンガ。
どう見ても塞ごうとしていたとしか思えませんが。

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真っ暗闇から外に出ると景色が鮮やかに見えます。が残念ながら私のカメラ技術ではそれを表現できません。

この遺構は20世紀初頭には7世紀の建立であるとされてきました。昔はともかく今は現地には時代を推定させるような装飾は見いだせませんでした。

少なくとも私に言えることは一片の陶片から、この寺院がそのとき建っていたかどうかは別としても
扶南時代にはここはすでにsanctuaryだったのではということです。追記:まあ正確にはこの彩色土器片など遺跡に残されている陶片の時代同定を待たないといけませんが。しかし少なくともこの手の彩色土器は私の知る限りですが、真臘時代以降SPK含めて見かけなくなるようです。

これで終わります。
参考
中華文献については名古屋大学東洋史学研究室で見られます。昔HP作ろうと思って書いた文章はいろいろここからお世話になりましたわ。
いつか折を見てそれもネタにして使いまわしてみたいと思います。

追記 ここも南山大学が2007年ころまで発掘調査をしたという話をKampot州文化局の局長さんから聞きました。発表資料があれば入手してさらに検討してみたいと思います。
が、やはり予算不足でとん挫しちゃった、ともいわれてました。。。