カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Kbal RomeasことPhnom Seda Aun(Orn)その3

さて衝立状の岩の周囲に祠堂が建てられていたのではというあまり考えにくい仮説を立ててみたら
その奥の上にレンガの遺構があったわけでこれで仮説もあやしくなってきました。

衝立岩の西側から、上に残るレンガを見上げてみます。
イメージ 1
 

イメージ 2

このように中央にまた大きな仕切り状の岩が垂れ下がっていて途中でスパッと切れてます。
がそれより若干上に、その仕切り岩の両側に、レンガがきれいに積まれ、並べられているのが見えます。

 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
東側というか奥に向かって右側の方が残っています。
これは上部にまるで鍾乳銅の縦長のすき間に竹の節のような石灰岩の隔室ができてて、

その底が抜けて枠のようになったのを利用して(あるいは人為的に?)そこにレンガを置くとっかかりにしています。

たとえは悪いですが長いU字型の便座状の奥の部分にひっかけてある様子が分かると思います。


奥に向かって岩の左側も同じようにレンガが少し置かれてますが幅が狭いのと上から岩が落ちてきたのか壊れてはっきりしません。
イメージ 5
 

もう一回右側の方を見てみますと
イメージ 6
 
ピンボケは仕様です。
・・・

どうもこうやって見ると綺麗にレンガがせり出し構造で並べられている、すなわちこれは屋根の部分で
あることが推定されます。
しかもこれを見る限りかなり天辺に近いというか天辺そのものに見えてきます。

しかし、この屋根と思しきレンガ遺構はあの衝立岩の奥の、落ち窪んだ穴の上に当たります。

衝立岩周囲というかその前に散乱するレンガと、
どうも位置的にずれているように感じます。


イメージ 7
 

見上げてみると大きな岩が、多分上から崩落して横たわっております。
そしてここは近くのPhnom Chhngokのように洞窟寺院だったはず、なのに
その割にはかなり上から光が差し込んできて明るい。

イメージ 8
 

大体皆さんもお分かりになったと思います。
つまりあの衝立岩も含めて、ここら辺に散乱している岩は全て鍾乳洞の天井が抜けて上から落ちてきたものであるということが。

そしてそれらの岩の大崩落が寺院を下敷きにし、粉砕してしまったであろうということを。

もう一回全体を見てみましょう。
イメージ 9
 

やはり衝立状の岩の周囲にレンガが散乱している上結構向かって右側の方まで拡がっています。
そして衝立岩の下の方の岩の間を見ると結構すき間があります。

つまりこれらも上から落ちてきたものである可能性があります。
ということは本来の祠堂はさらにその下に建っていたのかもしれません。

ただしそうなるとまた屋根のレンガとの位置関係をもう少し考え直さなければなりませんが。


実際ここも南山大学が発掘したらしいですがそのレポートが見当たりませんのでどういう見解か分かりません。
ややこしくなったので私の考え、の途中も含めて、まとめます。ここら辺は本当に写真だけ見てくださればいいのでいつも通りスル―推奨です。


①まず寺院はどうやらmassiveに天井が抜けてぺしゃんこになった。それがいつごろ起きたのかは不明。さらに調査が必要である。

②その位置は今は岩のがれきの下だが、多分衝立状の岩を大体中心としたそのあたりではないか。

岩が降ってきたせいで段差ができてしまったが本来は比較的平たんな部分に寺院が建てられていた。
しかし岩の下敷きになって基壇含めて確認が取れない。てか素人には無理。

③上部に2か所残るレンガ遺構は屋根の一部と考えられるが、とすれば衝立状の岩の下辺りに寺院があったとして微妙に位置関係がずれている。かもしれない。

もしかしたらほかの洞窟寺院で見てきたが上にレンガを積んだだけのもので屋根とは関係ないかもしれない。だとすると、やはりその意味がいずれの洞窟寺院について、よくわからない。

④最後にポルポト時代に寺院のレンガはかなり運び出されてしまったという話が伝わっている。
がこの寺院については、遺跡破壊をポルポト派だけのせいにするわけにもいかないことは確かであろう。
ただしほかの洞窟寺院に比べると比較的簡単にたどり着けるのでレンガを持ち出しやすかったであろう。

本当に参考にできる資料がCISARKさんのサイトのフランス語の説明文くらいしか、今のところないので
また資料を手に入れられたら改稿しつつ再検討したいと思います。

これで終わり、ではございませんでw
その4まで続きます。

参考資料
CISARKさん