カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Kbal Romeas ことPhnom Seda Aun その4

レンガのRuinだけでここまで妄想を語り続けるのもなかなか苦労しますが最後にいつものあれを。
あれってなんだ
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はい土器片です。これは単色の赤褐色土器で、これはそれなりの時代のもののようです。
つまりこの寺院が創建された当時位のものであろうかと思われます。

本当にかえって扶南時代のほうがある程度陶器も見当がつきつつありますが、プレアンコール時代の陶器についてはいわゆるリドヴァン(これも未確定ですが)まではまったく謎です。
扶南のケンディはシェムリアプのVat Poのことを書くときに提示しますが、これらや
や陶器のレベルの高さは私のブログの第一回でもお示ししたとおりですが。

ちなみにここは広々していますがPhnom TotungやPhnom Kyangのように人骨や遺灰は見当たりませんでした。
それもまた岩の下敷きになっているのかもしれませんが、少なくとも中世~近世には墓地としては使用された痕跡はないようです。

(追記 と書いたがオーギュストパヴィを参照すると全くそんなことはないことがわかります。。)

あとはこの洞窟内の風景でもタンタンと貼って行きます。
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衝立岩前のテラスからこれは出口ではなくてその西側を見下ろしています。

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これは東側だったと思います。
衝立岩同様岩にちぢれが走っていて、そのこと自体脆い岩なのだろうと推定できます。

かつては鍾乳洞だったのへ空洞化により天井が支え切れずに抜けたということが、見て行けばなんとなくわかってくればいいなと思いますが。まあ興味があればここは次回から書きますPhnom Chhngkokとセットで見られますので、ご自分の目で確かめるといいかと思われます。

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ついてきた少年、と言ってもタバコ吸ってましたけどwまあカンボジアではおkのようです。
彼らと比較すれば衝立岩やこの洞窟のスケールのでかさが分かると思います。そしてこのあたりがイマイチ寺院を建てるにふさわしい平坦さを保っていないことが。

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それにしても奥の岩のご神体っぷりには瞠目させられます。
古代の人たちも洞窟の中でこれの存在に畏敬の念を抱いたのではないかと思われます。

・・・洞穴の奥の方まで探検すればよかったですが舐めてましたのでヘッドランプを車に置いてきてしまいました。。。

また研究されてる方もいることですし、いろいろ分かってくるといいなと思います。

こんなところでこの遺構についてはおしまいにしておきます。

・・・
追記 CISARKさんのサイト見直していたらどうもここにも先史時代の貝塚があって南山大学はそれを発掘した見たいですね。ブロンズの何か出たみたいに書いています。。
ということは上記下よりももっと古い土器片もありえるかもしれません。

しかし全く気がつかなかった。。。

また行かなければなりませんねこれは。