Pr.Ta Krabei
遺跡についてはさらりと終わることにする。
前日にも日本人のカップルが車できたとのことでまあ意外と知られているのであろう。特に紛争以降は。
こんな感じでカンボジア側からは南東から上ってくることになる。
東向きの一基のみの、装飾のない砂岩の未完成祠堂である。
このあたり池があったようだが定かでない。
このあたり池があったようだが定かでない。
ここにはタイ軍兵士はいなかったが遺跡の北側の広場にはいかないように言われた。写真も撮ってはいけないとのこと。他にも道以外藪とか危ないところに入らぬようにと。
その北面付近でエイモニエが書いているように陶片がいくつか落ちていた。
大体陶片とこの遺跡の構造からしてTa Muenと同じ11世紀半ば辺りではないかと推定されるが。
北面 はそういうことであまり離れることができないのでこんな感じで。
西面は山の斜面になっていて
このように斜面を基壇に合わせて切り開いた様子が見て取れる。
と 山の斜面に不発弾があるというので見ると
ご覧の通り。
木の幹に突き刺さったままである。タイからである。
このように
遺跡周辺はまだ不発弾が散在しているので大人しく軍人さんのいうことは聞いておくべきだ。
地雷より不発弾の被害の方が実際多いわけだから。
遺跡周辺はまだ不発弾が散在しているので大人しく軍人さんのいうことは聞いておくべきだ。
地雷より不発弾の被害の方が実際多いわけだから。
南面
足元には傾斜した岩に木の柱の穴が並んで開けてある。
木造の建物がかつてあったのであろう。
木造の建物がかつてあったのであろう。
この遺跡についてはエイモニエとラジョンキエールがちらっとだけ書いているが二人とも遺跡を訪れたわけではなく伝聞であり、ラジョンキエールに至ってはエイモニエが書いてることを紹介しているだけである。
エイモニエ(LCⅡ P189)をテキトーに訳してみると
エイモニエ(LCⅡ P189)をテキトーに訳してみると
「Bak DAi村は、ダンレック山脈を下りChup Smach(O Smachか?)へ向かう道を行くとスリンで最後に人に出会う集落であるが、その南東1マイル半に,Preah EiseiまたはPreah Rishi(聖なる隠遁者)がある。
そこには数えきれないくらいの釉薬でつやのある陶片が散乱している。村人はこれは隠遁者の薬が石化したものだと思っている。」
これだけである。
昔はPreah Eisei/Rishi 聖なる隠遁者と呼ばれていたことは分かる。それがなんで水牛じいさんになったのかは不明であるがもしかしたらどちらも近年ここら辺に住みついていた人にちなんでいるのか?(遺跡内部はしっかりした造りゆえ)
装飾の類は唯一北面の破風のナーガの輪郭を一本だけ彫ったのみのを見つけたくらいで手掛かりはない。
となると陶片がヒントになる。
大体陶片が落ちている寺院の特徴として、11世紀辺りから黒釉のクメール陶器が見られ始めることから
遺跡の建立と陶片はシンクロしているとこの場合は、考えられる。
遺跡の建立と陶片はシンクロしているとこの場合は、考えられる。
しかしここが既知の王道とは違った古道の通り道ゆえ建立されたのか、それとも宗教的秘匿を意図して王道もしくはTa Muenから11kmほど離して作ったのかは謎である。
ただ私見としては陶片があるということは陶器を運んできたということで陶器の種類がこれだけでは断定できないものの、祭器として使うためかもしれないが陶器をそれなりの数運ぶということはそれなりの道があったのではないかと考えている。今のところ言えるのはこの程度であるが。
ということでこの遺跡については前項で述べたとおりここまでとします。
参考文献
書いてる本人に忘れられかけているがこのブログの底本である
E,Aymonier ”le Cambodge Ⅱ"はデフォです。
E. Lunet de Lajonqui?re"Inventaire descriptif des monuments du Cambodge"
無料公開されているサイトもありますが
最近はどんどん復刊されてますのでAMAZONででも探してみてくだされば出てきます。
書いてる本人に忘れられかけているがこのブログの底本である
E,Aymonier ”le Cambodge Ⅱ"はデフォです。
E. Lunet de Lajonqui?re"Inventaire descriptif des monuments du Cambodge"
無料公開されているサイトもありますが
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あとyoutubeでTa krabeyとかで検索すれば動画が色々出てくると思います。