カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Cha(r) Chiren その5

今日でこの遺跡についてのまとめは終わりたいと思います、がw
前回でいろいろと終ってますw

さて。今まで見てきたように
前室を持つ中央祠堂というこの程度の規模の寺院は結構あると思いますが

それがラテライトではなく砂岩で結構気合が入った造りになっているというのは
珍しいと思われます。類例を探しては見たものの回廊状でなければ思いつかないので
まだまだ見に行ってないところにはいろいろあるかもしれません。
で、
よく見てなかったのでその前室の両側に開いている
これは窓というより扉を見てみますが
イメージ 1

イメージ 2

その石の壁の分厚さや石同士の接着面を研磨している部分などが見えると思います。これは本気で作ってること
がわかります。
そして前回見たようにこの前室にもNagaやMakharaといった装飾が、
たぶん未完成ではありますが施されています。これも本気で作っています。
それだけ中央祠堂に祀る神を本気で信奉していたのだろうと推測されます。
それだけ気合が入ってた寺院だったろうと思います。

あとはスルーしていた部分をよく見ると
ラテライトの周壁東部入口付近にも砂岩と連子窓の残欠がそこそこ落ちているので
入口は回廊様構造をもったそこそこの門だったかもしれません。
イメージ 3


とまあ気合だけでここまで妄想してみましたが最後に
妄想による現時点でのこの遺跡のPlanの最終形態?を示しておきます。
ほんと北を上にするの忘れててすいません。
イメージ 4

前衛施設の周囲環濠については回り込めてないので適当な感じは否めません。もう少し近かったような気がするです。

以下
考察として課題も含めて書きますのでよっぽどお暇な方以外は以下スルー推奨です。

1.そもそもこの程度の遺跡が、地元民に知られているのにCISARKさんに未収載なのはなぜか。
→開拓によって森の中から新たに発見されたのではないか。
こういう遺跡はこれからもちらほら出てくる可能性が、ありがたいけど残念ながらある。
というのもカンボジアの森林破壊が加速しているからである。
遺跡を宗教施設化してもいいからせめて遺跡+周囲の森を手入れしつつ守る→観光客も若干呼び込んで生活の足しにする とかいう工夫ができないかとも少し思うが当然これはアンコール遺跡のモデルのパクリである。

2.この遺跡の建造年代であるが、建造物の構造、装飾の残欠からすると砂岩部分、ラテライト部分含めて当初の安易な発想での、Koh Kerに近いならKoh Kerぽいしそれで、というわけではなくその一つ二つ時代が下がった10世紀中ごろから末にかけてだったようだ。ただし、
もしかしたら、であるがこの砂岩でできた部分がもともとあったレンガ塔に後程増設されたという
可能性はないとはいえないだろう。レンガ塔の時代考証はちと難しいレベルまで壊れている。

3.そしてこの遺跡の名前である。よーく検討してみると
CharはPrasat Char(REP IK598 地元名Prasat Sela Char Ruk=石の碑文の寺院)でもわかるが
もともとはヤシの葉の芯などに鉄筆で字を書くなどという意味がある。

じゃChirenとは何ぞや?となるがこれそのものの綴りがわからないもののそのものずばりぽい言葉で意味を成すものはなさそうなので近似したカンボジア語を必死で調べると Chriengという言葉がある。
この意味は斜字体、である。
すなわち斜字体の字の書かれた寺院、という遺跡を見た地元民がその特徴をみたまんま名付けるパターン
とするならつじつまは合うので今のところはそういうことにしておいてもいいかもしれない。
ただし斜字体という言葉自体を学者でない村人が繁用するほど知ってるかどうかは、謎であるが。
ということは。

あああああああ 碑文あったかもしれないというのに完全に見そびれてしまた...

ということかもしれない。
・・・糸冬