カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Thma Krae IK.130.02 その1 長文注意 自家用メモK.122,K.926 K.927

KratieのThma Kraeについてとりあえず自分用メモのためスルー推奨です。

石澤先生の新著読んでたらいろいろとわかったのでこっそり追加と訂正を。

なんてことか碑文は3つあったが、実際のところ一つと思い込んでしかも1個もまともに見てないが水ですり減っててこんなもんだろ、と思ってた。情けない話である。CISARKさんの写真みるとK.122が写ってる写真があり、この岩の位置が水没してたわけではないようだがあとで自分の写真見返してみてもどこにあと2こあったのかさっぱり見当がつかない(後述)

イメージ 1

上のひもがずっと定位置だったとしたら上の方にあったのであろうが、もう一回確かめに行きたくてならない。もしかしたら乾季の終わりにしか水面上に現れないのかもしれないが、となると5月あたりに行くのがThara BorivatのVon Khanともども見るにはいいのかもしれない。

碑文について
最初に見つかったのは3行のK.122でL.FinotによるBEFEO 3
p212に碑文の模写と訳文あり。

いきなりやらざるを得ないか。
K.122 CISARKさんサイトからEFEOの拓本
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bhaktva bhagavatc c'ambho-
r ma-ta-pitoror anujn'ay'a
stha-pitan~ Citrasenena
lingun jayayti C'ambhavam

(Finot ,L. BEFEO Ⅲ p212)
訳は適当であるが

「敬虔なる厳かなÇambhuの人々の信心をもってCitrasena(質多斯那:隋書でいうところの)=Mahendravarman王(590~611AD)が父母の承認を得てÇambhuの勝利のリンガを建立した。」

・・・


Citrasenaは隋書で真臘を立てた王、質多斯那として記されている。西暦600年ごろから王位にあったとされている。
ちょっとまて。
Musee de Kratieの碑文(4行でCISARKさんにも記述なし。近年収蔵されたか?)

イメージ 3

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よく見たら字体こそ違えど同内容ではないか!

よく調べてみるとK.116、K.514も断片ではあるが
同文であるとのこと。前者はStong Treng 後者はなんとコラート出土という。

どういうことか。
Çambhuてもしかして真臘のことじゃないのか?
チトラセナがあちこちにこの碑文を置いて、そして多分リンガを立てたということは支配が確立したというマーキングのつもりだったのだろう。そしてÇambhuの信仰心と勝利とを称えている=自らをÇambhuの人間と名乗っていた者たちの王ということじゃないのか?

Çambhu→Sambhu→Sambor  ?
Çambhu→Kambhu→Kambhujia?

いずれにせよ真臘≠Zhenlaなんて新参のマンダリン発音で読んでるようではどうしょうもないが
真臘は日本語のしんろうのほうが発音もオリジナルに近いのは間違いない。
まあ妄想である。

1944年にあと2こ碑文が仏教協会によって発見されたとのこと。こちらはIC Ⅴ.P22-24
K.926
は11行、2行がsktで9行がKhシャカ歴546年(西暦624年)
本が崩壊しそうだがやるしかないか。

1. [me]s[e] ketuguru vr.s.e budharavi c'ukro nr.y.u - - sthito rahuh karkatake
sanaic'carakujau sin.he tu haste c'aci
2.[c'aka]bd[e] rtukr.tendriyair avasite jes.t.he dec'amya-s site
lagne mi-namite rppita- hariharaaprakhya-tamu-rttis tada-

クメール語
3. [c'aka]parigraha [54]6 ma-sa jys.t.hah. dina dec'ami- ket ida-ni
c'an.karana-ra-yanapratis.t.ha-
4. [am.]noy pon~ prajn~a-ki-rtti ta vrah kamratan an~ c'risuvarnnalin.ga sam paribhoga ta vrah kammra-
5. tan an c'ric'ankarana^ra^yana 0 kantai ta yajama-na ta vrah klon mratan vrau 1 klon~ya-n au Ⅰ ge 2
6.Kn~um [gho] da va- bha-nucan 1 va i~c'varacan 1 va- kanden 1 va hidimva 1 va- vrau 1 va- dron. 1 va- kan~ca-r 1 va- kansin. 1 va- ca
7.-[1 va-] kandi.n 1 ge 10 cam.dak va- karom 1 va- - - 1 va- svay 1 va- kat.o 1 va vrau raman~ 1 va- cam.dak ge 7 anakantai ku ju.n ka
8.- - - candha-n 1 ku pan~ din 1 kon ku 1 ku kam.vai 1 ku rahval 1 paon ku 2 ku ha-n. sen. 1 ku a-s ta vrah. 1 ku anan. 1 ku yan. 1
9.ku ara - dai 1 ku sre 1 kon ku 1 ku vnur 1 kon ku 1 ku adah. 1 ku lun. 1 ku tpon~ 1
ku nis.t.hura 1 kon ku 3 ku kandhas 1 ku c'a
10. tru anak 1 ge 20-7 sarvvapin.da ge phon. 40-2 tmur 20-10 damrin. tem. sla~ 200 sre ma~ vamrah gui 20
11. kaol - - ta gui 200

サンスクリット語部分
Ketu と木星牡羊座の位置にあり、水星と太陽がおうし座の位置にあり、金星はふたご座に、Rafuは
さそり座に、土星と火星がしし座にかかり月はHasta にあるシャカ歴546年Jyesthaの月の満ちる10番目のホロスコープうお座に確立(立証)された日に、Hariharaの名で知られる像を建立した。

HastaてなんだHastarじゃないし。いあいあ。

クメール語(訂正版 石澤先生の本に載ってましたねよくみたら。)
シャカ歴546年(西暦624年)Jyesthaの月(4-5月だったっけ)、月が満ちる10日目、今こそ
C'ankaranarayanaの神像を立てる。
Pon PrajnakirtiによるV.K.A.Suvarnalinga(聖なる黄金のリンガ)への寄進が、V.K.A.C’ankaranarayana聖なるシャンカラーナーラーヤナ(すなわちHarihara神)と共有(sam paribhoga反対語はpre siddhi)された。
神にささげられた(yajamana)女性(kantai)は Klon Mratan Vrau (志願)1名と Klon Yan Au1名の計2名

僕奴は男性gho は
va- bha-nucan 1, va i~c'varacan 1,va- kanden 1 ,va hidimva 1 ,va- vrau 1 ,va- dron. 1 ,va- kan~ca-r 1 ,va- kansin., 1 va- ca-[1 ,va-] kandi.n 1 ,ge 10 cam.dak (意味不明)の10人とva- karom 1, va- - - 1, va- svay 1 ,va- kat.o 1 ,va vrau raman~ 1 ,va- cam.dak の7人

女性ge kantaiは
ku ju.n ka - - - candha-n 1 ku pan~ din 1 kon ku 1(子供) ku kam.vai 1 ku rahval 1 paon ku 2(前記の弟妹か? Jennerは姉にしてるがそれならPonでは?碑文原文見ないとなんとも。しかし末妹相続の社会のしきたりとすればやはり姉とすべきなのか?) ku ha-n. sen. 1 ku a-s ta vrah. 1 ku anan. 1 ku yan. 1 ku ara - dai 1 ku sre 1 kon ku 1(前記の子供) ku vnur 1 kon ku 1(子供) ku adah. 1 ku lun. 1 ku tpon~ 1
ku nis.t.hura 1 kon ku 3(子供3人) ku kandhas 1 ku c'a  tru anak 1

奉納物の合計は次の通りでphon 42(人?) tmur 30頭の牛(?)、200本のビンロウ樹 Ma Vamrahの田20 のなんかと11kaol(米倉か?)(以下意味不明)200

・・・
もともとあったと思しきV.K.A.Suvarnalinga黄金のリンガ(ひょっとしたらこれがK.122のリンガのことかもしれない)とその寄進物、田などの土地をこのたびHarihara神への寄進物や人、田を共有させたという話らしい。こういう事例は前アンコール期にはよくあるとのこと。ここらへんは石澤先生の本に全面依拠しておきますわ。Harihara神信仰の広がりの一端も見えているのかもしれない。

最初Klonの女性がサクリファイスされたと読めるがどうなのだろうか。高位の人の妻のようであるが、よく考えればMratan KlonでなくKlon Mratanであるところが意味があると思えるが。まるでMratanの長という風にも見える。そうなると相当高位となるが。

僕奴はよくみると最初に男性が10人と7人(6にしかみえないが)
そして女性の方にも注目だが
なんとまあ子供や弟妹?8名をどけた女性の名も17名分。

17組の夫婦(とその子、一部姉or妹)8人がこの神にささげられた社領に入植したように見てもいいか?

それにしても最初の碑文K.122に比べるといつものパターンという感じの碑文ではある。が
ちょっと数的に興味深い。

K.927はもっと短いのでさっと済ませると
6行のクメール語碑文で実際シャカ歴600年代ということらしいが不明である。
どこにあるのかと思えばこれも調べてみればMusee de Kratieに収納済みだった。探してもあるはずないが収蔵されててよかったとも思う。
しかしいろいろ見てみたが、どの碑文かわからない。CISARKさんによると1行なくなって5行の碑文とのことだがさっぱりわからない。5行の碑文もあったがどう見ても違う。

分からないが9柱あった碑文のうち6行のもので最初の出だしがそれっぽいのはこれしかなかったので
暫定的にこれにしておく。しかし4行目の最後vrah kammratan an~が全く読めないのと最後の文字が
taでおわってるぽいから自信がない。左上に文字が書いてあるのもいただけない。年数のようにもみえるのだが。

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最初の出だしはいけそうなのだが。
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後半は全くあやしい。。。

しかしこの碑文の最初の修飾はほかの碑文の断片にも見られたから同じところから出土したのかこういうスタイルが流行っていたのか。
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・・・
とりあえず本を丸写しにしておく。

Ⅰ ---duttaras.acchatac,kaparigraha ta gi dva-dac,i ket c,ravan.a uttara-s.a-dhanaks.tra
Ⅱ ---divasava-ra gi sre ta tel ti kura-k c,u-ragra-ma tve ai cdin. vri-da-n.
Ⅲ[amvi] tnal mratan bha- prasanna loh. karom tnal mratan
Ⅳ------kapa-lac,es.a sre man pon~ bha- vic,a-rada ja-hv ta klon~ tep
Ⅴ-------- tel pon~ vrau kros oy ta vrah kammrata-n. an~
Ⅵ c,ric,an.ka[rana]rayana

訳は
シャカ歴600不詳年(650年とかJenner) Çravan.aの月(第5月大体7-8月)、月が満ちる12番目の日、Uttarasadha(斗宿)に月の宿る、日・・・
Cdin Vridan(多分Vridan川:って川と言えば目の前の大メコンしかこの近辺見当たらないw・・もしかしてメコンの古名はこれか? )でKurak Çuragrama(人名 titleのKurakはMratanの下位)が作る田はMratan Bha(Bhagavataの略) Prasanna(人名)の道からMratan …Kapalacena(人名)の道の下まで:
Klon Tep(人名)に Pon Bha Vic,a~rada(人名)が買った田は……
それはPon Vrau Kros(人名)がV.K.A.Sri Çankaranarayanaに奉納した田である。

これはどうやら 田の境界線を取り決めた碑文のようである。
先のK.926からまた時代が下っているがシャンカラーナラヤーナ神,すなわちHarihara神はずっと信仰の対象としてあり続けていたようである。

Pon Vrau Krosと先のK.926で出てきた志願者の女性Klon Mratan Vrau、この女性との関係があるのかどうかも気にかかるところである。少なくとも欠損はあるものの長文ではないから曖昧なところは少ない。田の由縁を見る限り、この吉日を選んで改めて検地された田の、少なくとも一部なりが先の同じ場所から見つかった2碑文の祭神や登場人物と所縁があることだけは間違いないであろう。


とりあえずあとは普通に遺跡を見ていきますのでこの項は一応公開しておりますけどごくごく私的な今後の課題のメモということで。
というかThma KraeというよりKratie博物館の紹介じゃね?

参考文献
1.Leclere Adhemard,"Un campagne archeologique au Cambodge" BEFEO Ⅳ pp739-749,1904
2.L.Finot,"Notes d'epigraphie" BEFEO Ⅲ pp212,1903
3.Coedes、G IC Ⅱ pp134,1942
4.Coedes,G IC Ⅴ pp22-24,1953
5.Coedes, G IC Ⅷ pp160,1966
サイトはいつものCISARKさん
Kratie museum
Thma Krae
追加で 
6.石澤良昭 「冠称者が活躍する前アンコール社会」”(新)古代カンボジア史研究",pp327-410、2013
K.926はp397に。これ見てこっそり訂正w 
しばらく碑文については大人しく石澤先生の本読んで勉強しておきますわ。
7.Phillip N.Jenner ”A dictionary of Pre-Angkorian Khmer" ,Pacific Linguistics ,2009
辞書調べて追補。これとAngkorianの辞書もあるけど以前も紹介したとおりサイトもあるので本買わなくてもよかったかもしれない。