カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Preah Theat Khvan Pir IK.130 その1

ちょっと間が空きましたが前回の遺跡Prasat Preah Theat近辺の、こちらはKompong Preah 様式時代の代表的遺跡の一つといえる、Prasat Preah Theat Khvan Pirについて述べてまいります。
とはいっても今回はコピペに終始しますがw


とりあえず先に結論をぶっちゃけますと。

①北塔がさらに崩壊して門扉の石柱がなくなってたか埋もれたかして影も形もなかった。(ここも7,8年前壊れたらしい)。
ちょっと思ったがこれは2004,5年のアンコール遺跡においてTa Prohm寺院の榕樹をなぎ倒遺跡を破損させたカンボジアではめずらしい台風の襲来した時期と、もしかしたらBanteay Chmarの4面塔を倒壊させ(関係ないと思うが(思ってない)日本の某大学が調査に行った次の日壊れた)た時期、前回のPreah Theat遺跡も崩壊させた時期と大体一致しているのではないか?

②現存している南塔の入り口に向かって右側の石枠もCISARKさんの写真と比べると消失していて、碑文K.121を見ることができなかった。(よくCISARKさんのサイト見てたら碑文はこっちの正面北側石扉にあったようですので訂正および追記しておきます。)
③さらにCISARKさんの写真にはかろうじて写っていた北塔の前のこの遺跡に特異的な石のリンテルが埋没している様子も見ることができなかった。
④と、非常に残念なことになっていたが、それでもこの寺院は素晴らしいのである。

イメージ 1

以上です。
・・・これで終わっていいんですがそういうわけにもいかないので寺院を見ていきましょう。

とはいっても最初に碑文からコピペ解読していきましょう。
BEFEOにL.Finotが写したのもありますがCISARKさんの拓本を拝借。

イメージ 2

サンスクリットですね。はいこれもBEFEOからPerseeさんを通じてコピペできることに今更気づき私独自の奇怪な表記は引退となります。

âvirbhute çakendre vasurasair (°) kâmini/madhya/candre/simhe lagne tulàyâm dinaka/ratanaye ghàtike jïvaçukre
(2) minendrendvâtmajâte ksitisut;isahite bhuritïksnàùçujàle devaç Çrï Puskareço dvijavaramunibhis sthàpitah Puskarena

/は私が入れております。
訳はちょっと意味不明なところが多いのでフランス語訳からはかなり外れて、結果おかしなことになってるかもしれないが。

シャカ暦で表されるところの味覚?と火とVasus(Vishnu神の八大元素たる、4代元素と空と月日星で表される元素の神々;もしくはその一つである火のVasuかも?リンガでVishnu神が8角形なのはこのためのようだ)すなわち638年(西暦716年)の御代、十二宮(の黄道であろう)の乙女座と獅子座の中央に月が配置され(ここは仏訳と変えて解釈している)、土星が天秤座に、木星と金星が水瓶座、水星は魚座に配置され、太陽が火星に関係している日(天体に詳しい方なら日は特定できるであろう)、Puskara(蓮という名をもつ人物)は提供者と高名なバラモンのためにSri Puskareca神(聖なる蓮の神もしくはPuskaraの守り神か?)を建立した。

このPuskaraという人が問題になるがPuskarakusha(蓮の双眸をもつ)という、アンコール王朝の王統につながる人物とされている。この人物はPreRupの碑文K.806のとても長い、しかしRajendravarman2世王の正統性を訴える系譜の中にも見られる名である。

とはいうもののセデス先生はこのPrasat Preah Theat Khvan PirをKratieはKratieでもSamborに含めて記述している。まあ無理はないかもしれないが下の画像通りちょっとここは離れた内陸部である。十分支配地域であってもおかしくないが。
それらをはっきりさせるためにも先述した未登録遺跡群が重要になってくると思われる。
イメージ 3



…余談ですがM.Bruno Bruguierから連絡が来ました。どうもフランスに戻ってらっしゃるようでカンボジアに戻ったら前回の遺跡に行ってみるとのことでした。なにはともあれまたカンボジアの遺跡が見つかって登録され位置がはっきりしてその結果私が探訪しやすくなるのはありがたいことです。

以上能書きはこれくらいにして次回からは画像中心で見てまいりましょう。

参考文献
1.Finot,L "Notes d'epigraphie" pp675,BEFEO tome 4,1904
Perséeさんリンク直貼りで面目ないが忘れてたので追加。
2.Coedes,G IC Ⅰpp74-142,IC Ⅷ
3.Coedes,G "LES ETATS HINDOUISES D'INDOCHINE ET D'INDONESIE" pp149,167,1948
日本語訳は
G.セデス 「東南アジア文明史」(山本智教訳) 大蔵出版、1989,2002
そしていつもありがとうございます。
CISARKさんサイト
グーグルアースも参考にしてます。