カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Preah Theat Khvan Pir IK.130 その3

引き続き。
今日は南祠堂の前部から内部を見てたら終わってしまうと思います。
あとよくCISARKさんのサイト見てたら碑文はこっちの正面北側石扉にあったようですので訂正および
追記しておきます。

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東正面から入っていきますが、画像右、入口の石扉の北面がなくなっています。CISARKさんの写真では
両側そろっていたようですが。この部分については後述すべきことがありますがここでは措いといて

またレンガ塔にみられる前室と思しき壁が祠堂の前にみられます。
いつも思うのですがこの前室は屋根は木だったのではないかと想像されます。

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内部の写真です。これでいろいろなことがわかります。
まず西南北の壁に、形が不ぞろいなのも面白いですが龕が2つずつ開けられています。
この各々に何かしらの神像が計6体、安置されていたかと思われますが、6というのも意味があるかもしれません。
つまり、最初にみた碑文に出てきた太陽系の星が、太陽(Surya)、水星(Budha)、金星(Sukra)、火星(Angaraka)、木星(Braspati)、土星(Sani)、月(Candra)とまさに7曜ですが中央の神像とこの6つの龕にまつられた神々を合わせると7体、しかも配置は碑文に記された星辰の配置に対応していたかもしれません。

ここら辺は妄想も入ってますが。

追記、てっきり北塔にあったと思い込んでた碑文はこっちでしたのでこっそり訂正しておりますが、おかげでこの余計妄想が捗ることとなりました。

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南内壁です。龕の形が台形と三角形になってます。
それと壁が黒く焼けているのは後世のものであろうと思われますが不明です。


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西内壁は大きさが違うものの三角形です。
さらに龕の半ばまで崩落したレンガに埋もれていた跡が見て取れます。
つまりそこまで埋まっていたのでしょう。


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北内壁も形が違います。

ちなみに北は下の方にヨニがでてたかSomasutraが出てたのかもしれませんが埋もれて外からも確認はできませんでした。

この形、大きさの違いは適当にこうなったのか、それとも各位置に安置されるべき神像の姿に
応じて変えられたのかなぞです。

ちなみにこの龕の構造を持つ寺院Prasat Lbeuk Srautがこの近くにまだあって、こちらはたどり着けませんでしたが同時代であったのではないかと推測されます。

残念ながらここから神像が発掘、発見されたという記録は残されていないのでどうなのかはわからないままです。
龕についてはこれくらいにして
西内壁上部と
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東内壁を見てみると
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壁と屋根との部分に段差があるのも見えますが四隅に大きさから言っても木材を渡したと思しき穴が見られます。
これ以前のサンボールプレイクックなどで見られるフック状の鴨居(なのか?)留めのようなものではないことがわかります。
この木材がどのような役割を果たしたのかはこれまた不明としか言えませんが。

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入口の石枠とまぐさ石との組み方もこの時代にしてすでにこういうただ乗せただけでなく仕口に工夫がされていることもわかります。これもほかにもいろいろこの時代すでにこの技法を使っている遺跡があると思われます。が、資料のほうが少ないというかないので参考文献挙げときますが参考になりませんでしたw。

最後に祠堂内部を見て終わりとしますが
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埋もれている台座もやや小さいのでこれだけではないのかもしれませんがやはり、盗掘された跡はあります。
なんだか能書きが延々と続きましたのでこれくらいにしときます。

参考
Helen Ibbitson Jessup,Thirry Zephir”Sculpture of Angkor and ancient Cambodia"Thames and Hudson,1997 
[片桐、石澤、三輪 et al「クメール建築(9~11世紀)にみられる開口部の仕口について」 上智大学アンコール遺跡国際調査団「カンボジアの文化復興(16)」1999年]
J.Dumarcay,P.Royere,Smithies(translation)"Cambodian architecture,eighth to thirteen centuries",BRILL,2001
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