カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Preah Theat Khvan Pir IK.130 まとめ

ということでまとめというか今後の課題の方が多くなりますが、
箇条書きにするとこんなところでしょうか。


1.ここは8世紀のKompong Preah 様式に類するが微妙に差異がある独特の美術様式を持つ重要な寺院である。
ということは今までご紹介したとおりです。

2.Prasat Kompong Preahと同様にもしかしたら3基のレンガ塔があったのではなかろうか。


急に出ましたが、どうみてもご紹介した二つの祠堂の間の空間、これはなにかあったのではないかと思われてなりません。こんなに祠堂の間に空間がある、もしくは二基のみの祠堂というのは今までのクメール建築の事例からしても特殊です。発掘調査が俟たれます。再訪する元気はありません。

3.さらにいえば、この遺跡は寺院だけでなく寺院の周囲を土手で囲まれていてそこには一つの生活圏
コミュニティ、町(pura)が存在していた可能性がある。しかし今のところそれらしき碑文はない。

4.というよりは一つの軍事的拠点であったのかもしれない。土手の大きさからそう思ってるだけではあるがありえなくはないかもしれない。


5.となると今はKratie州の奥地でしかないこの地に転々と未知の、どうやら同じ時代の遺跡が散在するこの一帯は8世紀前半から後半にかけてはかなり大事な場所であったのではなかろうか。

6.それがメコン川沿いを支配していた8世紀の女支配者達とどういう関わりをもっていたのか、あるいは
チャンパとのかかわりはどうなっていたのか、さらに碑文で出てきた、Puskaraとは何者なのか、セデス先生のいう10世紀のアンコール帰還王Rajendravarman2世の先祖らしきPuskarakushaと実際どういうかかわりがあるのか。

7.最後に、それだけ遺跡、歴史的に空白に見えるこの地域が新発見によって歴史の脚光を浴びる可能性が残っているかもしれない。
一方でいろんなプランテーションが開発されて歴史の片隅のまま、消えてしまうかもしれない。



こういう妄想を抱きつつも、本日よりKratieの未確認遺跡地帯を含めもう一回探訪してまいります。
テキストオンリーで申し訳ありません。

何かと物騒なご時世、気を付けてまいりたいと思います。また適宜旅先で日誌など上げられたらと思います。帰ってきたらこの記事に適当に画像加えたいと思います(フラグというなかれ)。

追記:
旅の準備をしてしまいこんでいた地図など掘り出したところ、なんとまあ一昨年の旅の画像のSDカードが出てきました。何とも我ながら間抜けなことですがこれで旅の写真は全部復活させられることとなりました。お騒がせしました。それとともに旅もよいけどやはりある程度行ったところについてまとめろという天の御宣託かもしれません。この旅が終わったら昔からの旅をもう少し記事にしてまいりたいと思います(フラグ(ry。