カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

2/13(胸糞悪い話が続きます)

書き終わってからいろいろ偉そうなことを述べておりますが、これもまたあくまで個人の感想です
ということで。しかしどうしても言わずにおれない気分であるのです。

Stong Treng

昨日夕食を食べた地元の食堂に朝食を取りに行ったらなんと、もち米しかないとのことで久々にラオススタイルでの食事となりました。さらにシカの干し肉まであるという心憎いラオススタイルで、本日もさまよう予定なので弁当にも仕立ててもらいました。昨日のSesan川沿いの遺跡二つも周辺住民は日常会話にラオス語を使っているようで、バイリンガルのようでした。

メコン川に架かる橋が完成したのでわたるが、交通量は少ない。よって通った車は大体橋の真ん中で車を止めて記念撮影しまくることになる。無邪気に記念撮影に興じるが、とんでもない建造物であるこれは。それがいろいろわかってくると胸糞が悪くなってくる。

Thara Borivat 
また来てしまった遺跡の村。
①Vun Kuhn(Voun Khan)なんか発音が定まらないがヴぉンクォンて感じであった。IK324.02 再訪
去年より水位が低く、メコン川も岩が露出しているところもあるので期待したが、それでも水中だった。
川岸より直上した小さな店でいろいろ教えてもらった。
やはり月とワニを彫った岩が見えるらしく、その季節は4月中旬がベストで5月に入ると雨が降り水位が上がるとのことである。昨年推測したとおりであった。運が良ければ5月の頭まで見えることもあるが、見えない年もあるらしく店の奥さんは2年前に見たという。水中にあっても雨期が始まらなければ、水は透明で水中に没した岩が見えるらしい。

もし見たい方がいたら以上の情報を参考にしてください。

②Sara Srok Thara Borivat IK322
村の道沿いにある学校のような木造の村役場の北側の2番目の部屋がそうだが、鍵がかかっている。となりのセクションのあんちゃんは隣というのに全く何も知らない。困ってると目の前をバイクで二人乗りの妙齢の女性が通りかかり電話で鍵持ってるあんちゃんを呼び出してくれた。ありがたいことである。
何も知らない隣のあんちゃんもなんだかんだで一安心してくれたようである。

なかなか興味ある話、そして胸糞悪い話をここで聞かせてもらった。

③Angkau Khmau 2443
このブログにも来訪いただきご教示いただいたご先達のネット情報拝見して行ってみたかったので、②の鍵を持ってきてくれたあんちゃんに聞くとPOL POT?と聞き返された。Angkar Khmau(黒い服の組織つまりポルポトのクメールルージュ、赤いけど)と聞こえたようでなかなかカンボジア語は難しい。③の遺構だとわかると笑ってバイクで道案内してくれた。

④Prasat Preah Ko IK321 再訪。なんか牛に草を捧げたり記念撮影したりなでたりする遠方から来たと思しきご家族ご一行と鉢合わせた。信仰を集めているようだ。

Cheab Preah Vihear
次の⑦の遺跡をめざしPreaus Ko(k)への道を国道の警察で聞いたら近くに遺跡があるという。
(ここから先はしばらく胸糞悪い話が続きます)
ちょうど曲がるところであったが恐ろしいことに10km四方を中共の会社が広大な森林を破壊して開拓し、トラックが通るような大きな道を碁盤目に通し、地図も全く役に立たない。その畑の標識はすべて、北京語で書かれている始末。

さらにアパートを何棟も建てていた。つまり日本とのアジアンハイウェイ競争に勝利した中共は本国からラオスカンボジア、タイミャンマーに至るまで道でつなぎ、それらの国々にどんどん人を送り込み、資源を吸い上げていくのである。自国の実利を追求しているだけである。空恐ろしい話である。もうぶっちゃけるが去年紹介したCheabの古代の鉄工所も、中共がそこから鉄鉱石を採取しようとして州と契約してほじくりかえし、結局すでに採り尽くされていたようで頓挫したのだが、
メコン川にかかった最前の橋もそのためであるばかりか、なんでその場所に橋を架けたかというとThara Borivat側の橋の下は昔砂金が良く取れていたところであった。そこでメコン川に橋を架ける工事とかねて、中共はそこを根こそぎほりつくしてしまったのだ。とんでもない話である。O Treal の遺跡もあったはずだが橋と道路に潰された部分も多々ある。
この一帯ももともと森林だった土地だが、見渡す限り木一本ない畑となっておりそれは死の世界にしか見えなかった。

面白くない話はやめときましょう。遺跡の話に戻ると、国道沿いの家で遺跡を聞くと警察では1つといってたのに2こあるという。そこの家の子供が案内してくれることになった。

⑤Prasat Kamnap Toch CISARK未収載、ただし州文化局の看板があった。ここはその中共の会社の畑の中。この部分だけ破壊されないように文化局が看板を立てたようである。Bayon時代の宿駅であろうと推察される構造である。
⑥Prasat 名前なし CISARK未収載 こっちは未知の遺跡かもしれない。プレアンコール時代の崩れ去ったレンガ塔が2基
珍しくも40mほど離れて南北に並んでいたようで、南塔が主祠堂で大きく北はこじんまりしているが北祠堂の東面に中心が来る池が作られていた。
こっちは⑤の北東で1km弱離れていて森の中で大丈夫かもしれないが破壊されないように文化局が把握しているかどうか明日聞きに行こうと思う。と思ったがよく考えたら土曜だった。どうしたものか。

Praeus Kok ガイド氏はPreahといってたがどう見ても違うと思うが意味が分からない、KokはKaekと書いてあるけどCoughと同じ、ないしは発音も似てる、すなわち咳である。
⑦Prasat Prei Kuk IK320 とにもかくにもここには一度来てみたかったのは碑文があるため、だけでもない。
その後もその中共の道のせいで地図が全く役に立たずどっちに行けばいいのかしばし迷いやっと村に着く。村からはまた子供が案内してくれて、あるいて20分程度で着く。Sanctuaryであった。
新しい知見を得たがまた帰国後書いてみます。

それにしても⑤⑥を案内してくれた子供といい⑦の道案内してくれた子供といい、前者は幼稚園児、後者は小学校高学年と思っていたら各々10歳と15歳という。あまりの小柄さに驚いた。

追記:1975年、中共は自国の板橋ダム決壊事故やその後の疫病飢饉で20万人以上死んだといわれ、その食料の不足分をどうしたかというとポルポトカンボジアから吸い上げることにしました。つまりカンボジアは1976年などはそこまで不作ではなかったのに人民を酷使して収穫した米を、自国民には食べさせずに中共に送らなければならない羽目になったのです。そのせいで米が採れても人は飢えて亡くなるというなんとも胸糞悪い事態が生じたのです。カンボジアの森を破壊してまで切り開いた畑の広さに比してその一帯に住んでる、年齢の割にはやたらと痩せてる子供たちを見るにつけ、どうしてもそのことを思い起こさずにはいられないのです。
・・・

来るときは迷ってどうも南下しすぎていたようで村には南からついたが帰り村から北に行く、これが地図にあるオリジナルの道のようでそれを経てまた中共の道にでて国道に戻るまで、行きの半分であった。どっちにせよ密林の中にひっそりと佇んでいるイメージはそのままのとおりだが、その森もすぐ近くまで破壊の手が伸びていることに、やはり森の中では遺跡が見つけにくいというデメリットを置いておいても、森がどんどん伐採されていくのなら人類もまた滅びざるを得ないのだろうとすら思える。

 そう思わせるほどにやはり人間の業の深さというものを感じずにはいられないいろいろな光景と村人たちの話であった。考えてみれば密林の中に眠る、こんなところにあるのかと驚く遺跡にしても人間の所業であり、ある意味業の深さ、ないしはそれから逃れるつもりの術であり、遺跡の碑文も田畑の境界線を決めたり訴訟であったりということのほうが多い。
しかしその当時の人間はまだそこまで自然を破壊する力を持っていなかった。分相応だったのだろう。よって今となっては田畑の境界を記した碑文がある遺跡周辺も王道沿いに作られた遺跡も森の木々に覆われて昔の面影がなくなっているところもある。
しかし、この現代の人間の分を過ぎた自然破壊は果たして取り返しのつくものだろうかと思わずにいられないのである。こうやって遺跡を巡っている自分も業の深さを棚に上げるわけにはいかないが。