カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

概論 Kratie州 Thmei地区における未登録遺跡群について

昨日からまとめてやっとこの程度ですが、追記:ちょっと何を言ってるのか自分でもわからないのでいろいろ訂正しました。

本日からまず第一報として
今回探訪したKratie州Thmei地区におけるCISARK未収載の、つまり文献には未記載の遺跡群について述べてまいりたいと思います。
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使いまわしですがとりあえずこれでこの一帯に8箇所あるといわれている遺跡ないしそのグループ5か所がこの画像に含まれていることを示しております。
その5か所のうち

Prasat Preah Theat Khvan Pir IK.130
および

Prasat Preah Theat nau Phum Skouは昨年から今年にかけてご紹介済みです。そして①の遺跡は古くから知られております。

今回訪れた遺跡について位置情報と簡単にまとめておきましょう。後日で揃ったらリンクさせます。

③Prasat Lbeuk Sraut(Srot,Lobok Srot,Prasat Srot Srei) IK131.02 N 12d 36m 58.84sE 106d 18m 58.28s

はごらんのとおりIKナンバリングされています。Lajonquiereには記載が見当たりませんが。
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そして位置情報を見るとこの遺跡から100mも離れていない南に位置する

④Prasat Srot Pros N 12d 36m 55.13sE 106d 18m 59.38s
はこの寺院の付属施設と見てもいいのかもしれません。

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③の遺跡について考察する際に述べたいと思います。

ちなみにlbeukは木の名前であり、ほかの遺跡、窯跡にも出てくるSrotは崩れる/た、というクメール語でありここらへんの住民は「壊れたPrasat」という見たまんまでまず名前をつけて、その遺跡に生えてる植物を区別のためくっつけているようです。
先日も述べましたが③④のPros/Sreiは男性/女性ですがこれは各論で興味深い由来を述べたいと思います。
そして今のところPendingですが、
⑤Lo Srot Srangkae N 12d 36m 27.79sE 106d 19m 6.91s
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および

⑥瓦の窯跡Lo Kveng N 12d 36m 26.23sE 106d 19m 6.35s
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は10mほどの距離です。
但しここはアンコール時代//前アンコール時代の遺跡ではないと思われます。逆に言えばその分なぞが
深まります。近代化以前の遺構であることは間違いないと思われますが。

ただ、西に長方形のTrapeang 池を持っており遺跡としての条件は整っております。この2施設の関連は
各論で考察したいと思います。

③から⑥の遺跡ないし遺構は105集落の北Phum Srah(IKに出てくるPhum Salaとは違います。こちらはもっと7号線に近いです)の、北西に位置しており意外とアクセスは簡単でした。45分も歩けば最奥の③まで着けます。

そして105集落の北東に位置するのが

⑦Toul Pok Lok N 12d 36m 2.39sE 106d 21m 15.40s
でToul(丘)と言っても山に近く標高差は40mくらいあります。Pok Lokの両方のkは未発音です。
意味はPokは布団、Lokは~さんというのと同じ綴りで書いてもらいましたがさっぱり意味がわかりません。
ここは山頂に石材で正方形に囲ってあるもののレンガは全く見られず割れたヨニが放置されています。
祭壇のような役割をしていたのかもしれませんし、リンガを立てていたのかもしれません。
現在は次に述べる⑧同様少数民族の聖域として一応保護されているようです。
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ただその看板も朽ちかけており案内についてきた若い子が持ってきて放り出したのを写しただけです。
そこにはむなしくこの森は少数民族の森です。4㎞四方(たぶん)そんなことが書いてあります。

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その丘の頂上から林間に見えますが北に、
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⑧Prasat Phnom Gnon N 12d 38m 31.85sE 106d 21m 32.21s
が静かに佇んでいます。
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Gnonと書いてニョンと読むものの特に意味はなく少数民族の言葉である可能性が高いでしょう。Pok Lok
もそうかもしれませんがクメール語かもしれません。ご教示いただけたらと思いますが。
ここはPnon族の聖域として昨年伝え聞きました。③~⑥の遺跡を案内してくれた男性は少数民族でしたが
この山のことは知りませんでした。ということは彼はPnon族ということではないようでした。


これらは⑤⑥の古窯遺跡を除いて全てPreAngkor時代の遺跡で、①と②の碑文の暦年(①は西暦714年②は同780年:訂正)の前後で同時代に存在した遺跡であろうと言えます。
それはこれらの遺跡の建材であるレンガが日干しレンガで大きく、共通した特徴を持っていること、残されたヨニや台座の様式からも同定されます。

つまり、この一帯の遺跡は、他にも存在するいまだ地元以外知られていない遺跡を見ればこの推測が補強されるだろうと思われますが、PreAngkor後期、一般的には陸真臘と水真臘とに分かれたというものの、実際はもう少し群雄割拠しつつもある美術様式的な統一性を持っていた8世紀初頭から、アンコール王朝が成立したと思しき西暦790年くらいまでの間に、多分同じ勢力によって建てられた、すなわちこの一帯がある程度同一ないし同族の支配者の領域であった可能性を示していると推測されます。
そしてそれがセデス先生の述べた、この内陸地、一部もうMondolkiri州にかかるような奥地とメコン河畔のSambourと関わりがあるのか、あったとすればどういう関わりなのかということの検証も必要になって来るでしょう。

これらのことをこれから各遺跡について報告していくにつれ話しがまとまればよいなと思いつつ、広げ過ぎた風呂敷をどう畳むかが問題でもあります。

とりあえず概略総論はこれくらいにしておきます。