カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

Prasat Lobok Srot(Prasat Lbeuk Sraut,Prasat Srot Srei)IK131.02 その4 新知見 寺院東側参道と東端の遺構について

本日は前掲のPlanの③についてみておきたいと思いましたが、東門を紹介したならその先の東参道および
東端の遺構を先にに紹介した方がよいのではと思われますのでこちらを先に述べたいと思います。

ここらへんは案内してくれた地元の少数民族のおじさんも気付いてなかったようで参道をしみじみと見てました上、人跡を認められませんでしたので私が今回見出した新知見であると考えておりますが、なにせ例の棘棘のカンボジア竹に覆われた谷の先にあります。単にそういうところに突っ込む物好きがあまりいないだけのことでしょう。
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また大雑把な見取り図を挙げておきましょう。

前回見た通り東門前はまだ石列はありません。何か門前に広場があり木造の建築物があったのかもしれませんが。そして石列がパッと見たところないことがフェイントになり、この先参道があることを気づかせず人々の注意を引かなかったのであろうと思われます。
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ちょっといい写真が撮れてなかったのでアレですが
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これは手前の画像←の木の根元辺りから石列が始まり手前に伸びていることは見えると思います。
参道を北の外から寺院方面に向かってみております。よってこの石列は参道の北側の列です。
正面奥の白いスポアンの木、の向かって左側奥が前回紹介した東門です。

つまり東門から石列が始まるまでの間、画像見ると15m以上は間があります。



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参道上から寺院方面を見ておりますがご覧の有様です。
東へと目を転じると
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この2枚の画像で東に向かって下っている様子が分かります。
石列を辿って東へ向かいましょう。

とはいってもご覧のように倒木や、例のバリケードばりの竹に阻まれますが。

これはさすがに突破できませんので巻いて行きます。
ここら辺まで寺院から70m位かもう少しあるかくらい。
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このようにすとんと切り込んだ小さな谷に出合います。
ここで終わりかと目を凝らすとなんということでしょう。
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これは谷を渡って対岸の丘の取りつきから写してますが、驚くべきことに谷川の底に、石を敷き詰めて
断固たる意志で参道を続けております。
この石を敷き詰めた道、前年Prasat Preah Theat Khvan Pirでも言及しましたが今回これを見て人造のものであろうと確信しました。

…その確信はStong Trengで揺らぐことになりますが。

さてこの谷を渡ってまた傾斜を東へと丘を見上げると
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このようにさらに石列が伸びており対岸の丘にも参道が続いていることを示しております。

このように小川を越えて参道が伸びる寺院は珍しいと言ってよいでしょう。しかも前出のKhvan Pirと異なりこちらははっきりと、正門へと続く東参道です。

そして先ほどの谷の寺院側にもありましたが
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このように参道の傾斜部には石段があったと思しき参道に垂直な石列も見られます。
この丘も草木で行く手を遮られますが30m弱の距離標高差は4m程度でしょうか、

そして、

丘を登って下りかけた、平たん地に
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これでは引きすぎてわからないですが全景です。
寄ると
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前振りしていたように石とそしてレンガ列が落ち葉の間から確認できます。

ちなみに此の先東は
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このように草むらから森になっておりさらに地質も、東端までは人工的に並べたもののみならず自然の砂岩交じりだったのが、白い土ばかりで岩石をほとんど見ない土壌になっていました。
叢となって居る空間もときどきこういう遺跡に出くわしますので(Prasat Preah Phnomなど)何かあったのかもしれませんがあったとしても石造ではなかったのではと思われます。
大雑把な高低の図を示しておきます。これはどうでもいいやと思いましたが作ったからには一応
出しておきます。縮尺高低は個人の体感です。

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さて東端までたどり着き新たに東端の建造物の跡をさすがにこれは地元民も知らないというか気にも留めてなかったので発見と言っていいでしょうけど、見つけてから、後でGPSで位置など眺めてみると、興味深いことに先日記事にした、南側のPrasat Srot Prosと、寺院本体との距離=この施設から参道を経て寺院本体への距離で、ほぼ同じ120mになっています。

この点も遺跡を建造するにあたって計算されていたと考えてしかるべきでしょう。そのこと自体驚嘆すべきことですが。
プレアンコール期末期とはいえ古い時代の単一の遺跡で参道や付属施設がありありとわかる遺跡はそうないのではないかと思われます。

私の検索能力がアレですが調べる限り、当然と言えば当然ですが未知ゆえにこの寺院の本体の外や配置図について言及した文献は見当たりませんのでちゃんとした学術調査がなされることを期待したいと思います。

何せ私はこの遺跡の北側は全く踏査しておりません。しかしこの寺院の設計者が政治的な意味においても、建築学的な対称性に拘る可能性があるという点においても何かあるかもしれません。

この寺院はそれだけの歴史的にも建築学的にも重要な寺院であると言えます。プレアンコールと言えば都の西北さんとかどうでしょうか?

そして不肖私も、妄想の及ぶ限りプレアンコール期からアンコール時代への過渡期と言ってしまいますが、その時代の、この歴史的には空白の時代、空白の場所としか見えないようなこの地域に広大な敷地と付属施設を持った寺院が建てられた意味をこれから明かしていきたいと思います。