Prasat Lobok Srot(Prasat Lbeuk Sraut,Prasat Srot Srei)IK131.02 その9
引き続き主祠堂内部をもう少しだけ見てみましょう。
内部を見渡すと前述したとおり各壁には龕が2か所ずつ設けられております。
ここもPrasat Preah Theat Khvan Pir同様各面に2か所ずつ、つまり8体の神像を収めるべく龕があります。
また内部には割れた台座が見られます。祠堂自体も前述遺跡同様大き目です。ここらへんは様式を踏襲していたのかもしれません。
ただこの遺跡の龕はなかなか凝っており工夫が見られるのは
ここもPrasat Preah Theat Khvan Pir同様各面に2か所ずつ、つまり8体の神像を収めるべく龕があります。
また内部には割れた台座が見られます。祠堂自体も前述遺跡同様大き目です。ここらへんは様式を踏襲していたのかもしれません。
ただこの遺跡の龕はなかなか凝っており工夫が見られるのは
再掲ですが北面の龕が形が違うことと北東壁面の龕が神像に合わせて、と考えていいでしょうけど
独特のイレギュラーな形に作られています。
そして
このように龕の部分だけのためにレンガをせり出しアーチ状に組んでいるうえに壁面の段差をスムーズにしているという心憎い工夫をしています。
この技術には感嘆せざるを得ません。
当時どのような神像がどのようにこれらの龕に安置されていたのか、非常に知りたいものですがそれを知る手掛かりはありません。しかしこれらの龕が、各々の神像に合わせて形状を工夫して作られたことがうかがえただけでもこの遺跡はPrasat Preah Theat Khvan Pir同様貴重な遺跡であると言えましょう。
このように龕の部分だけのためにレンガをせり出しアーチ状に組んでいるうえに壁面の段差をスムーズにしているという心憎い工夫をしています。
この技術には感嘆せざるを得ません。
当時どのような神像がどのようにこれらの龕に安置されていたのか、非常に知りたいものですがそれを知る手掛かりはありません。しかしこれらの龕が、各々の神像に合わせて形状を工夫して作られたことがうかがえただけでもこの遺跡はPrasat Preah Theat Khvan Pir同様貴重な遺跡であると言えましょう。
さてしかしながら祠堂についてはこれ以上いえることはあまりありません。
PLANに戻ってみますと
PLANに戻ってみますと
遺跡の西側、中心線から南にずれていますが西門があります。
主祠堂西壁から西門を見下ろしていますがガイド氏が立っているあたりが西門と思しき遺構で、
石材が散乱しているのが見られます。しかしここもご覧のとおり竹が生えておりじっくりは見えませんでした。
ただ石材はあるもののレンガの壁の一部はうかがえます。
主祠堂西壁から西門を見下ろしていますがガイド氏が立っているあたりが西門と思しき遺構で、
石材が散乱しているのが見られます。しかしここもご覧のとおり竹が生えておりじっくりは見えませんでした。
ただ石材はあるもののレンガの壁の一部はうかがえます。
これで終わりと行きたいのですがところがどっこい
西門からさらに西に、これは30mほど直進すると
ここにもレンガの遺構と思しきレンガ列が見られます。
西から寺院を見てみるとこんな感じですが、
画像中央の竹のところが西門です。
この西門外の遺構も今までは知られていなかったので新知見と言えましょう。
つまり遺跡周壁の外部の、
南と東参道に加えて西にも何かしらのレンガの建造物ないしは遺構が設けられていたということです。
…てことはやはりこの寺院の北側にもなんらかの付随施設の跡があったのかもしれず見逃しましたが。
西門からさらに西に、これは30mほど直進すると
ここにもレンガの遺構と思しきレンガ列が見られます。
西から寺院を見てみるとこんな感じですが、
画像中央の竹のところが西門です。
この西門外の遺構も今までは知られていなかったので新知見と言えましょう。
つまり遺跡周壁の外部の、
南と東参道に加えて西にも何かしらのレンガの建造物ないしは遺構が設けられていたということです。
…てことはやはりこの寺院の北側にもなんらかの付随施設の跡があったのかもしれず見逃しましたが。
そしてそのまま400m弱西に行きますと
以前述べたように遅くともこの寺院と同時代に設営されたと考えられる、深い土手を持った長方形の池があります。
こうなるとまたグーグルマップと併せて見直す方がいいかもしれません。
大雑把に水色の線で囲んでます一番←の池のことを言っておりますが驚くべきことに東、北東にもいくつかの人工の池と思しき遺構が見られます。
以前述べたように遅くともこの寺院と同時代に設営されたと考えられる、深い土手を持った長方形の池があります。
こうなるとまたグーグルマップと併せて見直す方がいいかもしれません。
大雑把に水色の線で囲んでます一番←の池のことを言っておりますが驚くべきことに東、北東にもいくつかの人工の池と思しき遺構が見られます。
そしてこの一帯はいずれ開発されてしまうのかもしれませんがいまだ集落から外れた森の中にあります。
もしかしたら未知の遺跡が池の辺りに眠っているのかもしれません。なにせこの寺院の東側の参道ですら地元の人も把握していなかったようですので。
もしかしたら未知の遺跡が池の辺りに眠っているのかもしれません。なにせこの寺院の東側の参道ですら地元の人も把握していなかったようですので。
遺跡があるかどうかを置いておいても、この一帯がこの寺院を中心とした重要な領地であったことは碑文からうかがえますのでこの寺院とその社領に付随した池と、集落というか町だった可能性もあります。
いずれにしてもプレアンコール初期からアンコール王朝が胎動しはじめた8世紀末においてこの一帯はちょっとした町であり、歴史の転換において重要な役割を果たしていた可能性があることを次回いつになるやらわかりませんが碑文から見てまいりたいと思います。
これだけ長編になるとは思ってませんでしたが長くなるということはそれだけ歴史的に貴重な遺跡であるということだということで何とかまとめていきたいと思います。