カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

長文 碑文K.134 Prasat Lobok Srot(Prasat Lbeuk Sraut) IK131.02 その10

ではいよいよ大詰めになって参りましたがこの遺跡で発見された2柱の碑文を見ていきましょう。
と言って書き始めてからどんどん長くなりましたので分割することにします。

とても長いのでGW暇でしょうがない方やカンボジアの碑文マニアの方(実在するのか?)以外は読んでも人生何の足しにもなりませんことをお断りしておきます。



一つはK.134でシャカ暦703年(西暦781年)、9行のサンスクリットによる神や時の支配者への賛辞と20行のクメール語碑文による人員のリストのようないつものパターンとなっております。
本体は無事プノンペン国立博物館に収蔵されているらしいので(とんと記憶にない、最近行ってませんわ)CISARKさんから拓本の画像を拝借しておきます。
イメージ 1

この碑文は一見いつものパターンかで終わりそうですが大変な事実を告げているのではないかというのが今回の妄想です。

じわじわ見ていきましょう。文字化けしたらすいません。


サンスクリット語パート
   (1)oṃ namo bhagavate vāsudevāya

(2)Srijayavarmmaṇi nṛpatau Sasati pṛithviīṃ samudrapryyantãṃ
(3)Brahmakṣatrāñśabhave natanṛpadhr.taśāsane nityam

1行目は Om真言 天上の神の名を称えんvasudeva(すなわちヴィシュヌ神)。
2行目から本文です。大変なことが書かれてます。
海に囲まれた地を聖なる王Jayavarmanが支配したとき、バラモンとクシャトリアへの勅命(śāsana)は常に王の寄る扉によって発せられた。(この碑文のことを言ってるのか?)
それにしても明確に王命という言葉を使っています。


(4)....................rā prameśvaravallabhah kulodbhavaḥ
(5)..................... bhūrivibhūtic, śrutāḍhayatarah

この部分は前半の拓本の状態が悪かったようですが。


(4)     ・・・・   Paramesvaravallabha(人名 Parameśvara+接尾辞/あるいは至高の神ないし王牛飼いという意味なのか?)高貴な家系より出て
(5)・・・・・・・・・・・   数え切れぬ富と明晰な学識を持つ



(6)----pi----ṣṛthadevas tenaiva srthāpitas satigmān'śuḥ
(7)Śrīsiddheśvaradeva- pratīta........................

ここに聖なる(Śri) Siddheśvara(Siddhīsvara=Siva神)の名で知られる神を建立し,それとともに輝く星(太陽)の…


(8)dahanāmunilakṣye śake ..................
(9)aśvinyām uḍnāthe tula..............

火(3)と0とmuni 7 で記される年、一のけたから書かれているけどCaka暦703年(西暦781年)の
Aśvinの星座に近い月  古の神の星座Asvin は乙女座の辺りらしく、そしてtulaは天秤座に当たるらしいのでこのあたりの月、つまり今でいうところの9~10月に(以下日時も書かれていたかもしれない)。


サンスクリット部分はここで終わります。最初にヴィシュヌ神を称えといて本文中ではシヴァ神と太陽のSurya神かどうかわかりませんが神を建てたと書いております。ただし太陽の神というとヴィシュヌ神を示すこともあるようです。それ以外に欠損部分にヴィシュヌ神他について書かれていたのかもしれませんが。

祭神についてはともかく、建立した方の人間について、考えますと。

JayavarmanがPrameśvaravallabhaであることは間違いないでしょう。

じゃあ
このJayavarmanはどのジャヤヴァルマン(王)なのかというのでいろいろと揉めています。

揉めていて7世紀後半にカンボジア(いわゆる分裂前の真臘)の王として君臨したJayavarman1世とアンコール王朝の初代Jayavarman2世の合間に現れたため(というかこの1世2世も後世の御都合主義の産物かもしれませんけど)いわゆるJayavarmanⅠer bis(一世 乙)みたいに言われてますけどほかの遺跡の微妙に時代がずれる碑文にもJayavarmanの名が出てきて乙乙、じゃなかった乙丙丁などとわけのわからないことになっています。

しかし、
この人も同一人物であるJayavarman2世そのものではないのか、それで不都合があるのか?というのが私の仮説でもあり妄想でもあります。

というのも、
実際Jayavarman2世王が大体カンボジアに復帰して支配権を確立していったのは、従来の
有名なSdok Kak Thom碑文(K.235)で言われていたKulen山にリンガと誓いを立てた西暦802年ではなく、790年頃ではという説がまずあります。それから9年前のことでしかありませんこの碑文は。9年の間にJayavarmanを名乗る別々の支配者が立て続けに出てくることはあるのか?という疑問もあります。

さらにいえば、他ならぬK.235碑文の文中で、彼のことをJavaから帰ったParameśvaraと呼んでいるからです。
この場合は諡、つまり死後の名前だろうということになっていますがインド風に生前から異名を持っていたと考えることも無理ではないのではないかと思います。


ともあれ海に囲まれた地を支配した高貴なる王、こうなるとJavaインドネシア説も一笑に付すことがしずらくなりますが、妙な整合性が出てきてしまうのが面白いところです。

今回の旅でPreAngkor期の、未知なる遺跡群をKratie州に見てきましたが、Javaインドネシアにしろチャンパにしろ)からどうやらKompong Cham州の、歴史上何回も出てくる砦Banteay Prei Nokorを経て、北へKratie州へと到達してメコン河畔の有力者の協力も得て彼Jayavarman2世王がカンボジアの統一を目指す過程として、8世紀の遺跡が散在していた、つまりそれなりの人員の集積していたこの重要な地域を一時期拠点においたりした可能性はあるかもしれません。

それだけ広大な土地と人員と兵站に恵まれた土地であることはクメール語パートを見ていくと推測されます。そもそもこの寺院の周りに広範囲に人工池が散在していたであろうことは前回グーグルアースの衛星画像で提示したとおりです。

が長文で画像がないとさびしいのでもう一回上げときます。
イメージ 2


前回より増えてますがどうもあやしそうなところは片っ端から囲んでいます。最低でも確定している西の池以外に2か所は人工池と言えると思います。

芸術文化省の調査が俟たれます。いや来年行ってもいいですけどどうしたものか。


クメール語パート

(10)anakk paṃre kaṃlun' vraḥ gho ------------
(11)-- hau --- deva ------------
(12)vñau Ⅰ Karoṃ Ⅰ jen' Ⅰ vraiy Ⅰ ----------
(13)y Ⅰ kurun' Ⅰ kandvac Ⅰ jaṃ-el Ⅰ piṇḍa 10-2 paṃre kaṃlun vṛah ------
(14)mahasā ame nāgaśrīya Ⅰ jayadeva Ⅰ ame Kyep Ⅰ kyep Ⅰ suta ---
(15)n śrīya Ⅰ vnam Ⅰ yūdhikā Ⅰ ka-njun’Ⅰ caṃrip Ⅰ kṛṣnadeva Ⅰ jaṃ-el Ⅰ{ame}
(16) tkep Ⅰ tkep Ⅰ saṃ’ap Ⅰ cyer deva Ⅰ ’me kañjā Ⅰ kañjā Ⅰ kansup Ⅰ saṅhār
(17) smau cke Ⅰ kan’as Ⅰ smau Ⅰ meṅ 2 kñuṃ Ⅰ 2 piṇḍa g[e]3 20 8 kanruk Ⅰ
(18) vnok tmo yol gho bhap pi rmmel Ⅰ vinayābhara Ⅰ -―- ñ Ⅰ sahitaṅkara Ⅰkrau Ⅰ--
(19)- dip Ⅰ ’āśramapāla Ⅰ kañjeṅ Ⅰ vaiśrava Ⅰ mārakṛtajña Ⅰtkir Ⅰ piṇḍa gho 10 2 tai kan
(20)’at Ⅰ s.oy 10 Ⅰ kāvali Ⅰ mihā Ⅰ ’aśvaṇī Ⅰ ’me knas Ⅰ saṃreṅ Ⅰ taṅker Ⅰ vṅe vraiy Ⅰ
(21) kanrak ⅠvaideśaⅠ pinda tai 10 1 meṅ 9 nu sre nu pdai karoṃ nu daṃriṅ○ vnok jvor gho kyak Ⅰ
(22) ’ādityaśarmma Ⅰ○ tai ’ji cke Ⅰ ’me musⅠ karoṃ Ⅰ ’me ’ādityaśarmma Ⅰ candān Ⅰ meṅ 2 pinda tai 7
(23) vnok vraḥ hiñ dāṃ gho bhavadat Ⅰ kanso Ⅰ nandavidya Ⅰ ○ tai kaṃpaṅ Ⅰ ’me kaṃpaṅ Ⅰ ’me
(24) candan Ⅰ nu sre nu pdaiy karoṃ ○ vnok cdiṅ kryel gho candrāditya Ⅰ kan’as Ⅰ
(25) bhaktimāra Ⅰ ○ tai sir Ⅰ meṅ 2 nu sre nu pdai karoṃ ○ vnok ’añjaṃ gho vidita--
(26) kañje Ⅰ- hita Ⅰ kiriśarmma Ⅰ kdip Ⅰ karoṃ Ⅰ vidita Ⅰ ktac Ⅰ kantvoh Ⅰ pinda gho ―[tai]:Jennerによる追補
(27) - Ⅰ’me jahvol Ⅰsrac ta bhāgya Ⅰ tanmat Ⅰ ’me kaṃvah Ⅰ ’me kṣata Ⅰ ’me ----
(28) ’me taṅku Ⅰ dah sras Ⅰ sara cāṃ smau kralā meṅ 2 pinda tai 10 2 savāla --
(29) tmur dneṃ 9 ○ daṃriṅ -- pdai karoṃ sre teṃ lvā Ⅰ cok ransi Ⅰcok svāyⅠtnal--

訳は
(10)-(13)
この聖地に奉仕する者は gho(男性)------------- hau ---デヴァー(神だが人名の末尾)以下人名でvñau 、 Karoṃ(平地ないしは低地、転じて田畑) 、 Jen' 、 Vraiy 、 ----------、Kuruṅ、 Kandvac、 Jaṃ’el、と総計12名の僕
(14)-(17)今度は女性(tai)と子供のリストで、Mahasā aMe Nāgaśrīya 、 Jayadeva 、aMe Kyep 、Kyep 、 Suta ---n śrīya 、 Vnam(山さんか)、Yūdhikā Kānjun’、 Caṃrip 、 Kṛṣnadeva、Jaṃ-el、{aMe}Tkep 、 Tkep 、 Saṃ’ap 、Cyer deva 、’me Kañjā Kañjā 、 Kansup、 Saṅhār
(17) Smau Cke 、 Kan’as 、Smau 、子供2名奴隷1(わざわざKnuṃと書いていますそしてKnuṃを奴僕とするのが一般的なアンコール期の萌芽がみられております:追記と書いたけどちょっと調べたら普通にプレアンコール期の碑文にも出てきましたわ)を含む、総計28名の奴がこの聖地に配された。

リストに載ってる女性奴婢というにはJayadeva(勝利の神)とかクリシュナデーヴァとか立派な名前の方もいますが一方でcke(イヌ)という名も見られます。男性のところなどと同じ名前の人が繰り返し見受けられますが家族だったと考えていいと思います。Meとついているのは母親という意味で子供が一緒にいたのでしょう。Smauというのもよく出てきますが、草のことらしいので牧草の世話をする役の、という意味があると思われます。ここまではこの寺院敷地内の空白地についてどうなっていたか示唆されているのかもしれません。


さらにここからが重要かもしれませんが寺院の周りの地名とそこに配置された人員のリストが続きます。
まず
(18)Tmo Yol(Yol岩という意味か?)のグループは

Gho(男性)は、 Bhap pi、Rmel、 Vinayābhara、---ñ、 Sahitaṅkara、Krau、--(19)- dip Aśramapāla、 Kañjeṅ 、Vaiśrava 、Mārakṛtajña 、Tkir 、 これら12名
中にはAśramapāla(アシュラムの衛人)なんていう名も見受けられます。
(19)
Tai(女性)は Kan(20)’at 、 S.oy 、Kāvali 、Mihā 、’Aśvaṇī 、 ’Me knas 、Saṃreṅ、Taṅker , Vṅe vraiy 、(21) Kanrak 、Vaideśa、の11人と 9人の子供が稲田とほかの農地の耕作のために配置された。

Jvor(地名)のグループは

男性(gho) Kyak ,(22) ’Ādityaśarmma(太陽、SuryaもしくはVishnu神を守護にもつ者) ,○ 女性(tai)は ’Ji cke 、 ’Me mus、 Karoṃ、’Me ’ādityaśarmma(上の男性の母親てことになる) 、Candān 、子供2名で全部の女性(tai)7人 。ちょっとここはなぞですがセデス先生も男性2、女性5に子供2で合計女性7人としておりJennerもそうしております。

(23)Vraḥ hiñ dāṃ (地名でしょうけど聖なる~とは興味がわきます)のグループは

男性(gho)Bhavadat 、 Kanso 、Nandavidya 、 ○女性(tai)はKaṃpaṅ(秘密、隠れた=隠し子?w) ,’Me kaṃpaṅ(その母親) , ’Me(24) candan , らが農地と田のために配置された。合計の話なし

Cdiṅ kryel(Kryel川)のグループは

男性(gho) Candrāditya 、 Kan’as 、(25)Bhaktimāra 、○女性(tai)はSir 、 子ども2名これらは田や農作地に○

Añjaṃ のグループは

男性(gho) Vidita--(26) Kañje 、- hita 、 Kiriśarmma (山を守護に持つもの)、 Kdip 、Karoṃ 、 Vidita 、 Ktac 、 Kantvoh 、男性合計---
女性(tai Jennerの追補)は(27) -人名不読 、’Me jahvol 、Srac ta bhāgya(運の尽きというなんともな名) 、 Tanmat 、’Me kaṃvah、 ’Me kṣata、’Me ----
(28) ’Me taṅku, Dah sras , Sara,これらは牧草の世話を中庭?にて行う。それと2名のこども、合計12人の奴が配された。

(29)9つがいの牛(牛車用でペアという意味であろうか)9 ○ daṃriṅ -- Teṃ Lvāの田や農作地 に1  Cok Ransi(竹の生えた茂み:地名であろうけど竹がはびこっていたのはご紹介したとおり)に1Cok Svay(マンゴーの林)に1、Tnal(盛り道)に1…

つまり牛車の配備について書いていたと思われる。

糸冬

とここまで長文で書いてて気力が途切れそうでしたが実際はコピペしまくりです。参考文献、サイトは文末にあります。
途中人名で分かる範囲で書いてますが、全部わかったらもっといろいろなことが分かるのではと思われます。少なくとも人名にはある程度役割、仕事がそのまま名前になってる人がいる、というのも少なくともプレアンコール時代では一般的だったようです。
それにしても立派な神の名を持った僕奴も見られるのが、ここに限ったことではないですが、不思議です。
もしかしたらもとは高貴の出自で8世紀後半のアンコール王朝成立過程での戦争に敗れて奴隷として働かされたのかもしれません。あるいは奴隷というよりは神の奴隷ということで祭神に仕えて神聖な役割をはたしていたのかもしれません。こういう妄想はしだすと止まりませんが。

そしてイヌとか運が尽きたとか気の毒な名前の人もいます。がどこかしら悲壮感に乏しいのは気のせいでしょうか。そんな人もほかの人に交じって畑作や寺領の維持に従事しています。

そして、クメール語パートはありきたりな寺院の寄進地ないしは寺領の農地への僕奴の配置の、一見ありきたりに見える碑文ですけどいろいろ大事になっております。

最初の寺院内の人員はおいといて
地名とそこの区画の人員について挙げられていますけど
一つ重要なのは
川です。
Cdiṅ kryel Kryel川には少人数しか割り当てられていませんが、この川が
どこから来たのかどこにある川なのかが問題です。

Cdiṅ、現代クメール語ではStongということでそこそこの川幅の川であるのですが、
グーグルアースなどではちょっとわかりづらいです。

てことで地図を引っ張り出して画像に川を書いてみましたが、

イメージ 3

5kmほど北にそこそこ大きいメコン川の支流があり、そこからさらに支流が遺跡の北側に向かって走っております。この川が、どうも遺跡の北や東に散在している人工の池の水の供給源だったのかもしれません。いずれにしてもそれなりの広さの寺領を持っていたのであろうと推測されます。

この寺院とその寺領についてどのくらいの広さがあったのか明らかになれば、この寺院の影響力、力が明らかになりこの寺院の建立者の力、ひいてはそのものがだれであったかも明確になるかと期待されます。

また訂正すべき点があれば書き換えていきますがとりあえずいったんこの碑文について終わります。
次回はK.135碑文とこの遺跡のまとめをいたします。

参考
1.G.Coedes ICⅡ pp92-95,1942
2.CISARKさん
3.SEA classics KhmerP.Jenner,2010
今回サンスクリットやクメール文字の英字記号表記にあたっては
4.Sanskritdictionary.comさんをフル活用させていただきました。一番参考になったのはここかもしれません。
5・Parmentier,H"LART KHMER PRIMITIF" tomer primier pp212 
Phnom Sambok(Kratie北)の項にちらっと書いてあるのみですが。