消えてしまったのか?
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投稿日を間違えて時空を超えてましたので再投稿しときました。
投稿日を間違えて時空を超えてましたので再投稿しときました。
なんか妙にアクセスが増えてますが、変なキーワードに引っかかって迷い込んだ方はすいません。
万一カンボジアの遺跡や碑文や歴史に興味がある方は帰国後画像もうpしていきますので気が向いたらどうぞ。
・・・
アンコールワットに興味があって下調べに来られたのなら、何の役にも立たないですが、2月からアンコール遺跡群の入場料が一日券で20$から37$に超値上げされてる事はお知らせしておきます。最悪ですね。
Prey Veng Sithor Kandal
Kompong Chamから遺跡へ行く最短ルートをグーグル先生の言う通り進んでいたら乾期というのに道に大きな水たまりとあながあいて
て進めないという。
て進めないという。
引き返して大回りしたらほとんど舗装道路でなんだったのかと。
①Vat Prei Daeum thbong
集落の南と北にVat Prei Daeumがあって、こっちのみ遺跡となっているが、池くらいしかわからず。グーグルマップ見るともしかしたら寺の外かもしれない。
①Vat Prei Daeum thbong
集落の南と北にVat Prei Daeumがあって、こっちのみ遺跡となっているが、池くらいしかわからず。グーグルマップ見るともしかしたら寺の外かもしれない。
②Prasat Prei Chung ここはPrei Khmeng style のレンガ祠堂。道から曲がり口に案内板立てたりやたら観光地、聖地として力入れているが。
③Preah Saoch
Vat Khnar ないしはちょっと読めない、①への曲がり道の正面にあるお寺のことかと尋ねたら、お坊さんが南の森のネアクターだと教えてくれた。感謝です。
驚くべきことにシヴァリンガが祀られて、アンコール期の神像の下半身の残欠まで。北東には陶片も。大きめのりドヴァンの残欠を見つけ、リンガに供えてきました。こっちのほうが私的にはサンクチュアリですわ。
④Vat Svay 正式名称はもっと長い。
ここも池くらいしかわからず。
Kompong Cham
③Preah Saoch
Vat Khnar ないしはちょっと読めない、①への曲がり道の正面にあるお寺のことかと尋ねたら、お坊さんが南の森のネアクターだと教えてくれた。感謝です。
驚くべきことにシヴァリンガが祀られて、アンコール期の神像の下半身の残欠まで。北東には陶片も。大きめのりドヴァンの残欠を見つけ、リンガに供えてきました。こっちのほうが私的にはサンクチュアリですわ。
④Vat Svay 正式名称はもっと長い。
ここも池くらいしかわからず。
Kompong Cham
Tuol Preah Theat という丘もこの後あったが,時間が推したのでOu Rang Ou に戻り市場でお葬式の大音響の歌を聴きつつ昼食後、
途中の遺跡をすっ飛ばし、
⑤Preah Theat Khtom IK.120へ。
丘の上のプレアンコールからアンコール期にかけて信仰されたレンガ祠堂。ラテライトの3重壁と、前衛の建造物、特に南前衛。その下に陶片多数。そして両面の碑文石碑が、立派にコンクリートで固定されていたが、欲を言えば屋根が欲しいです。
僧房がありおじいさんが出てきたがあまり話しせずに終わってしまった。
⑥Preah Theat Trapeang Chrei? IK.121
⑤への途中通った寺がこの遺跡の位置になる、はずだが何もない
村人に聞いても知らない、ないとしか言わない。
名前の通りTrapeang、つまり池なら寺の北にあるが名前もない様子。
だがその池に行く得寺の北入口に破風の残欠と思しき彫刻のある石を発見した。
遺跡地図にも立派なplanつまり伽藍が記されているのに、どこへ消えたのか、あるいは場所を誤認してただけなのか?
CISARKさんがないと確認もできないですね…。
ラジョンキエール見てみましたがエイモニエ氏によると、という説明だけですね。
もしご存知の方いらっしゃいましたら来年の参考にしたいと思いますのでご教示いただけたら幸いです。
途中の遺跡をすっ飛ばし、
⑤Preah Theat Khtom IK.120へ。
丘の上のプレアンコールからアンコール期にかけて信仰されたレンガ祠堂。ラテライトの3重壁と、前衛の建造物、特に南前衛。その下に陶片多数。そして両面の碑文石碑が、立派にコンクリートで固定されていたが、欲を言えば屋根が欲しいです。
僧房がありおじいさんが出てきたがあまり話しせずに終わってしまった。
⑥Preah Theat Trapeang Chrei? IK.121
⑤への途中通った寺がこの遺跡の位置になる、はずだが何もない
村人に聞いても知らない、ないとしか言わない。
名前の通りTrapeang、つまり池なら寺の北にあるが名前もない様子。
だがその池に行く得寺の北入口に破風の残欠と思しき彫刻のある石を発見した。
遺跡地図にも立派なplanつまり伽藍が記されているのに、どこへ消えたのか、あるいは場所を誤認してただけなのか?
CISARKさんがないと確認もできないですね…。
ラジョンキエール見てみましたがエイモニエ氏によると、という説明だけですね。
もしご存知の方いらっしゃいましたら来年の参考にしたいと思いますのでご教示いただけたら幸いです。
ここで時間切れでこの地域の探訪はまたいずれとなりました。