カンボジアの歴史探訪 2

つかいにくいのでFC2にて活動しますわ。

追補 Prasat Lobok Srot(Prasat Lbeuk Sraut,Prasat Srot Srei)IK131.02 その10 未完

2015年に行って、
従来知られていなかった遺跡周辺の付随施設について紹介しました、このPrasat Lobok Slot(Lobeuk Slaut)IK.131.02ですが、前回はよく見ていなかった、遺跡の北側はどうなっているのかと、以前書いた通り気になってましたので、はるばる来たついでにちょっと調べに行ってみました。


というのも以前に紹介した通り、この寺院は、東と南にほぼ同距離(各々120mほど)離れてレンガの遺構、しかも東は参道の先端となっているーがあり、西はそれより近く30mほど離れて同様の遺構が見られます。
使いまわしですが。
イメージ 1


では北側にはそういうものはないのか。という話です。

結論から言うと、北にはなだらかに下る斜面があり、50m弱で幅8mほどの、しかし3mほどの高低差はある、涸れ川、河床があり、そこにはやはり砂岩が意味ありげに集積されてはいましたが、川を渡って超えようとしても藪で到底入れそうにはありませんでした。
しかし北側には、東側で見られたような参道はありませんでした。

藪の中にもしかしたら、川を越えてレンガの付随建築物があるのかもしれませんが到底確認はできそうにありませんが、
川岸、というよりちょっとした崖ですが、崖はこんな感じでした。

自然の砂岩のようにも見えます。

いずれにしても東の、この川にさえぎられて、この規模なら雨季はここらへんでの渡渉は困難であったろうと思われます。

ここでもう一度、寺院に残されていた碑文、K.134について思い出すと。

この寺領の、どっちの方角か不明ながら
24行目クメール語パートに

Cdiṅ kryel(Kryel川)のグループは

男性(gho) Candrāditya(それにしても月・太陽というかっこいい名前ですね) 、 Kan’as 、(25)Bhaktimāra 、○女性(tai)はSir 、 子ども2名これらは田や農作地に○

という川方面の農地開拓に配置された僕奴の名が記されています。
このKryel川てのがこの川と考えても、差支えはなさそうです。

この川の右岸(南)か左岸(北)かはわかりませんがそのあたりで農業をやっていたのだろうと思いますが、今は森に還っております。

以下未完